こんにちは
WBCが面白いせいでいろいろ手につかないこの頃です。
やっぱり筒香はすごいとか、牧田休ませろやとか、いろいろな感想があるのですが、今のところいちばん感動させられたのは、内川の姿です。
言わずと知れた日本最高峰のヒットメイカーで、ソフトバンクの4番を打つ男。前回のWBCでは誰よりも悔しい思いをし、この大会にかける思いはおそらく相当なものでしょう。
それが今回の代表ではずっと控えでした。代打の切り札といえば聞こえはいいものの、これまでの実績と、過去の豊富な国際経験を考えたら、DHの山田や一塁の中田に出番を奪われるのは内心で「なんで?」という思いがあって不思議ではありません。
それでもベンチでは常に立って大きな声で声援を送り、1試合に1打席あるかないかの出番に向けて最高の準備をする。そして結果を出す。
そして満を持してスタメン出場した昨日の試合でも、見事に打点をあげ勝利に貢献しました。
WBCといえばほんのひと握りのスター軍団の話ですが、そんな内川の姿は、社会人として生きる自分にとってもとても考えさせられる、そして勇気をもらうものです。
会社でも、「なんで自分じゃなくあいつが!?」と思うことがあります。自分が選ばれず他の人が任された仕事の成功を、素直に祝えない気持ちになることがあります。
でもやっぱり、他人の評価こそが「絶対の評価」なんだと思います。
そこでいくらグチグチと悩み、誰かを恨んだところで道は拓けません。
自分にできることは、その評価を受け入れ、でも来たるべきチャンスに向けて努力を続けること。
ときに心が折れそうになったり、誰かを妬む気持ちも生まれるでしょう。そんなときは昨日の内川の姿を思い出すことにします。渾身のタイムリーを放ち、塁上で少し微笑みながら静かにガッツポーズをしためちゃくちゃカッコいい姿を。
子どもの寝顔
こんにちは
子どもが寝ているときの顔を見ると、こちらも思わずにんまりしてしまいます。
無防備で、少し口をあけて、大きめの寝息をたてながら「ぐうぐう」という言葉がぴったりな様子で寝ています。
本人たちからすれば、日々いろんなことがあって、悩んだり怒ったりしているのでしょうが、寝ているときの表情は安心しきっているように見えます。
その顔をみて、親であるぼくも、仕事やらなんやらの疲れで固まっていた何かがほぐれるような気持になります。
いろいろあるけど、毎日幸せだなあ、と思わせてくれます。
考えてみたら、 はるか昔、人間の祖先が野生の暮らしをしていたころは、子どもといえどもこんなにぐっすり眠ってはいられなかったはず。
いつ外敵に襲われるかもしれず、今のように多少つついても、抱えて別の場所に移しても気づかないような状態だと、とても生き残れないですよね。
子どもの寝顔は、自分が生きている平和な世界の証ということかもしれません。
バチェラーに学ぶモテ技
こんにちは
アマゾンのプライムビデオでやっている「バチェラージャパン」にハマっています。
一人のパーフェクトな独身男性(バチェラー)を、28人の美女が一つ屋根で暮らしながら奪い合う、という内容。毎回最後に「ローズセレモニー」が行われ、バチェラーからバラをもらえなかった数人が脱落していきます。
まあ、いつ脱落してもおかしくないような女性が残ったりしていて、そこは番組を盛り上げるためにバチェラーよりもプロデューサーの意向が優先されたな、なんてうがった見方をしたりもしますが、それでも毎回とても刺激的な内容に目が離せません。
何よりバチェラーが魅力的です。
外見がいいのは当然として、女性への気遣いや謙虚な物言いなど、男のぼくが見る限り、確かにほぼ完ぺきです。
そして思ったこと。モテる男はここが違う。それは、女性がしてくれたことに対して、すごく丁寧に「ありがとう」「嬉しい」と言葉に出し、感謝を表現するのが上手なのです。
これはとても参考になります。
ぼくがこれからモテ男になるのはあまり期待がもてませんが・・・それでも、たとえば奥さんのちょっとした気遣いに、きちんと心を込めて感謝を伝えられるようになれば、おかずの一品でも増えるかもしれません。
いろいろ学びのあるバチェラージャパン。ぼくの好みのあのコは、どこまで残るんだろうか。そんなことも気にしつつ楽しんでます。
「優等生をバカにするテレビ」について考える
こんにちは
最近話題になっている記事に、「テレビはいつまで優等生をバカにし続けるのか」というのがありました。
テレビに限らず学校などでも、「ガリ勉」という言葉があるように、勉強に打ちこむ子どもがからかわれたり、嫌味を言われる対象になることが多い。そろそろそんな社会を脱しましょう、という主旨の記事です。
そもそもなぜそんな風潮があるのか、ちょっと考えてみました。
まず前提として、この記事にあるような「優等生」は、勉強「だけ」できる子、というのがありそうです。勉強もでき、スポーツもできる子は含まれません。
また、ある程度大人になってからの社会では(大学生くらいからでしょうか)、いわゆる「優秀な人」が尊敬を集めるようになります。成績優秀、仕事ができる、そんな人です。体力がある、スポーツができる。でも仕事ができない、という人はむしろ残念な部類に入ってきます。
子ども時代は体力がものをいう世界です。いわば動物と同じ。弱肉強食です。しかし大人の世界は「稼ぐ力」が求められます。そこでは体力イコール「稼ぐ力」とはなりません。
テレビ番組で「優等生」をバカにする風潮。それはその番組が、小学生のように「体力」のみに価値を感じる感性で作られており、そんな感性の視聴者を対象にしている、ということかもしれません。
勉強ができることが、人としてすぐれているということではありません。
でも少なくとも、目標をもって努力している人をあざけるような、そんな風潮は早くなくなってほしいとぼくも思います。
まあ、そうやって努力できる人は概して、他人にどう思われてもブレずに頑張れるのだと思いますが。自分もそうありたいものです。
喜びの歌
こんにちは
最近、ちょっと仕事のことでモヤモヤしていました。
でも、もうたぶん大丈夫。
今のぼくにとって大切なのは、子どもたちに「仕事は楽しい」と胸を張って言える自分であること。そして、「大人になるの楽しそう」と思われるお父さんでいること。
なにが大切なのか、その優先順位が決まれば、おのずと選択肢もひとつになる。
そして腹をくくったら、どうなるかわからない先のことを不安がるより、まずは走り出してみようと思います。
最近ヘビロテの曲に「喜びの歌」というのがあります。
桐谷健太がTHEイナズマ戦隊と歌っている動画をたまたまYoutubeで見つけて聴いたとき、胸に激しく響いてくるものがありました。
今では毎日寝る前に聴くと、心を満タンにしてくれる大切な一曲です。
さあ、ぼくも七転び八起きの人生を楽しんで生きていこう。
バレンタインデーの意義
こんにちは
ぼくは以前、自分が「モテる方なんじゃないか」と思っていた時期があります。
いや正直に言うと今でも「昔のオレはモテた」と思いたがってる自分がいます。
小学5年生のとき、担任の男の先生から冗談半分に、「おまえはモテるんだな〜」と言われたことがあります。
中学生のときは2回ほど告白されたことがあります。
根拠と言えそうなのはそれくらい。
それだけを拠り所にこれまでの人生、自分を「モテる」と認定していたのです。
しかし!過去のバレンタインデーを振り返ることで、真実が見えてきます。
義理チョコ以外では、小学生のときに「5番目に好き」と言われてもらったのがあるくらいで、あとは大学に入って初めての彼女ができるまで、ほぼ無しに等しいのです。
これはやはり「モテない」と言わざるを得ません。
少なくとも「モテる」とは言えません。
本当にモテるやつは、チョコレートをたくさんもらうものなのです。
もらえないのは、自分のことを好きな女の子がシャイだからではなく、モテないからなのです。
だいたいモテるやつは、人生で何回告白されたかなんて後生大事に覚えていないでしょう...
というわけで、バレンタインデーというのは、勘違い男に真実を知らしめ、目を覚まさせる重要な意義があります。
人生一度でいいから、思いがけずチョコをもらってドキッとする、なんて経験をしてみたかった。。
その願いは息子たちに託すことにします
ひらがな派
こんにちは
ぼくが文章を書くとき、それはブログでも社内メールでも企画書でもなんでもそうですが、意識していることがあります。
それは「型ぐるしくならない」こと。
ぼく自身が、あまり難しそうな面構えをしたものを読むのが得意ではないので、自分でも読む気になるか、というのをひとつの基準として書くようにしています。
そんななかで目指しているのは、文字の量をできるだけ減らして言いたいことを伝える、というのもそうですが、それ以上に「ひらがな」をうまく使える人になりたい、と思っています。
ぼくの好きな書き手はみな、ひらがなをとても魅力的につかって、全体の力を抜き、読みやすい文章に仕立てています。
村上春樹さんの小説やエッセイ、糸井重里さんのコラムなど、そんな感じがします。
また社内でも、ひらがなを意識して使っている人のメールからは、なんとなく大らかさや懐の深さがにじみ出ています。
対して、専門用語を多用するカタカタ派や、変換できるものはかたっぱしから漢字にしてしまう漢字派も一定数存在します。
というよりも、そっちの方が多数派です。
ひらがなを使えばいいというものではありません。
それで読みにくくなってしまえば本末転倒。
その塩梅はけっこう難しいものです。
でもぼくはやはり、使いこなせるようになりたい。
ここまで書いてきて思ったのは、ひらがなは、書き手の人に「伝えたい」という想いや誠意を表しているものかもしれない。だからそれをうまく使える人のことを、なんとなく好きになってしまうのかな。