にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

ブランディングとかそのへんのことについて

ぼくの働く業界では、ブランディングとか、ロイヤリティとか、エンゲージメントとかの言葉が頻繁に使われます。「業界」なんて他人事のように書きましたが、かくいうぼく自身も油断すると、すぐに口をついてこれらの言葉が出てきます。

 


なんだかわかるようなわからない言葉を並べてしまうのは、自分の語る内容に自信がないからとも思いますが、まあそれはともかく。


 

これってつまり、自分の企業なり商品なりの「ファン」になってもらいたい、ということですよね。

 


ぼくは西武ファンですが、ときどき「ファンってなんだろう」と考えます。プロ野球の世界では、トレードやFAで選手が入れ替わることがしばしば。そうでなくても、引退がつきもので、ぼくが小学生の頃応援していたときの選手は、当然もう一人もプレーしていません。それでもぼくは西武ファンでありつづけているわけです。

そこに継続しているのは「西武ライオンズ」という名前だけ。

でもその名前のついたチームを愛し続け、そこに所属する選手を熱狂的に応援し続けているのです。


 

ではファンになったきっかけは何か。ぼくの場合は母親がライオンズを応援していたこと。なんとなく自分も肩入れして見ていると、当時絶頂期だったチームは毎年のようにリーグ優勝。とても大きな喜びを与えてくれるのです。そうなるとますます愛は深まります。気づけばかれこれ30年。強くても弱くても浮気をせずに愛し続けるファンができあがっていたのです。

最近はライオンズもご多聞にもれず、グッズや金銭的な優待などファンサービスが充実しています。でも一番はやはりチームが勝ってくれること。そして選手と触れ合えること。プロ野球チームにとっての「本質」「価値」はそこにあります。


 

そう考えると、ファンづくりに必要なのは、どれだけ多くの「リターン」を与えられるか、ということかもしれません。

ここでいうリターンというのは、嬉しさや幸せなど、つまり「感動」です。そして「応援してよかった」「ファンでよかった」と思ってもらう回数が多ければ多いほど、熱烈なファンになってくれるはず。

 


顧客サービスというと、ついポイントなど経済的なメリットに頼りがちですが、それだけでなく「なぜ来てくれるのか、買ってくれるのか」という点を掘り下げ、その「本質」をさらに充足させ「感動」を与える、という視点で考えてみるというのも必要なことかもしれません。

ほんとうに好きなこと

最近、あまりいろんなことにやる気が起きないとこのブログに書いた。

それは相変わらず続いているのだけれど、じゃあ何をして過ごしているのかというと、野球観戦、野球ゲーム、映画・マンガ、草野球にそなえたランニング・肩づくり。ほぼこれですべてである。

 

ほとんど野球がらみ。こんなときに自然とやりたくなることこそ、ほんとに「自分の好きなこと」なんだろうと思う。

「好きを仕事に」とはよく言われるが、これまでぼくは野球に関連する仕事につきたいと思ったことはなかった。球団職員などの求人を目にして興味を憶えても、応募する気にはなれなかった。「仕事」として接する野球のことを、万一にでも嫌いになったり、「もう野球のことは考えたくない」と思ってしまうことを恐れていたからだ。

 

でも、ちょっと考え方が狭すぎたかもしれない。たとえばぼくのような「ファン」を相手にする仕事だってある。草野球をもっとうまくなりたいと思う人向けのことだって考えられるかもしれない。自分のフォームを録画してくれるバッティングセンターがあったら、きっと通うだろう。自分だったら「こんなのが欲しい」と思うことを考えてみるのは楽しい。そんなことを少しずつ始めてみようと思った。

幸せの秘訣

昨日のNHKスペシャルで、夫婦関係を良好に保つ秘訣として「手を握り合い、向かい合って話す」というのをやっていた。

そうすると、相手に対して愛情深くなる「エストロゲン」が分泌されやすくなるそうだ。

 

たしかに「触れ合う」ことの、気持ちを安らげてくれる効果は大きいと日々感じる。

子どもと手をつないだり頬をなでたりするとき、ぼくの方が癒されている。昔実家で飼っていた犬や猫とじゃれあっているときも同じ気持ちだった。

このとき「エストロゲン」が放出されていたのだと思う。

 

これは人間に限らないかもしれない。動物だって親しい相手とは触れ合いたがる。猫が甘えてくるときはひたすら体をこすりつけてくるしね。

猫はああしてエストロゲンを発生させているのだろうか。

 

人や動物にとっての幸せって、実はシンプルで「触れ合う相手がいる」ことかもしれない。

「失う」ことと「ない」ことの違いについて

「光」という映画を観た。


永瀬正敏演じる中森という名のカメラマンが弱視を患い、やがて完全に視力を失っていく絶望の中で、水崎綾女演じる、映画の音声ガイドを仕事とする女性と出会い惹かれあっていく、というストーリー。


この映画を観ながらぼんやりと考えたことがある。

それは、持っていたものを「失う」ことの恐怖について。


生まれつき視力のない人がいる。

もちろん不便はあるだろうし、辛い思いをすることもあるだろう。その気持ちはぼくには分かりようがない。

ももしかしたら、人が空を飛べないように、水の中では息ができないように、様々な「元々できないこと」のひとつとして受け入れることができたら。「見えないこと」は恐怖や絶望という感情とつながることはないのかもしれない。


でも「失う」としたらどうだろう。


ぼくは視力は悪くないが、角膜がとても傷つきやすく、ちょっと何かが当たっただけで猛烈な痛みに襲われ、目を開けられなくなる。


つい先日も、座っているぼくの膝に乗ってこようとした次男の指が目に当たりダウン。そのまま一週間以上会社を休むことになってしまった。


その間はひたすら家の中で目を閉じて過ごすしかない。

平時の一週間はあっという間だが、痛みに耐えて堅く目を閉じて過ごす一週間はとんでもなく長い。そしてその間何度も「このまま治らなかったらどうしよう」という気持ちに襲われる。


野球を観ることができない。映画やドラマも楽しめない。マンガも読めない。仕事だって変えなきゃいけないだろう。そしてもう子どもの顔を見ることができない。


それは圧倒的な恐怖感だ。


視力を「もっている」から、失うことを恐れてしまう。


そしてそれは視力に限らないはずだ。


生まれながらにして授かったあらゆる身体的能力、家族や友人などの人間関係、お金もそうだろう。


その点、子どもは今の自分がすべて。比べる対象を知らない。なんて自由なんだろう。



「失う恐怖」を知ってしまう、ということが大人になるということなのかもしれない。

朝の通勤電車で

最近ブログをサボりがちだ。

いや、ブログだけじゃない。オンライン英会話も隔月でやろうと思っていたが、4ヶ月目にして、休止したまま再開の意欲がどうしても湧いてこない。


1日1章読み進めようと思っていた仕事関連の本もしかり。続きのページが開かれることなく、本棚で眠っている。


なんだか、いろんな「ちょっとがんばろう」の糸がぷっつり切れてしまったような感覚。


どれもそんなに大したことじゃないけど、自分の中ではそれなりの「義務感」があり、心のどこかでいつもプレッシャーと戦っていた。


それを乗り越えてやれば達成感があるし、続けていると確かな進歩も感じる。

それはわかっているけど、「さあやろう」という気になれない。


もともと自堕落な自分が、ちょっとがんばりすぎていたのかもしれない。一度糸が切れると、その反動は大きくなかなか元に戻らない。


これじゃいかんな、と思う気持ちは当然ある。でも一方で、まあこういうこともある、やる気が出てくるまでダラダラ過ごそう、と考えていた。


そんな中で、なぜ今日ブログを書こうと思ったか。


今朝の通勤電車。ぼくはいつもドアの脇に立つ。スマホを手に取りツイッターを一通り眺めたあと、何気なく車内を見渡した。


ほとんどの乗客がスマホをいじっているのだが、みんなそれでどんなことをしているのか、近くの人をさり気なく覗いてみた。


パズル的なゲームをしている女性がまず目に入り、次にその隣の女性。それはシートの一番端っこで、ぼくが立つ場所から透明の衝立を挟んで斜め下に位置する。つまり、気づかれない角度から、彼女のスマホが丸見えなのである。


彼女は一心不乱に文字を打っていた。

初めはメールと思った。申し訳ないけど、文面まではっきり読める。

内容はどうもメールではない。それは小説のようだった。


彼女はスマホで執筆していた。


画面にはほんの数行が映っているだけだけど、つい引き込まれるような、続きが読みたい気持ちにさせるうまい文章だった。


彼女にとって単なる趣味なのか、仕事の一部か、それはわからない。

でもこんな身近な朝の通勤電車で、自分の表現の腕を磨いている人がいる。それはなんだな爽やかな気持ちにさせてくれた。「オレもまたちょっとずつがんばろう」そう思った。


見ず知らずの作家さん、ありがとう。

いつかあの続きを読みたいなあ。

子どもに逃げ道を与えられる親になるために

最近の次男GWが明けたころから、幼稚園に行くのが憂鬱そうなそぶりを見せるようになりました。

 

原因はよくわかりません。

本人に聞いても、別に嫌じゃないと答えるのですが、毎朝出発前になると明らかに元気がなくなります。そして毎日のように幼稚園で泣いているそうなのです。

 

帰ってくるころには元気になっていて、そのときは奥さんも安心するらしいのですが、その後先生から電話がきて、幼稚園で泣いたことを伝えられる、という繰り返し。

 

理由がわからないので、どう対処したものか困っています。

 

ちょっと話は飛躍しますが、いじめで子どもが自殺した、というニュースを目にするたび、「死ぬくらいなら逃げ出せばいい」と思うし、「子どもがSOSを出して来たら、迷わず逃げる道を与えてやりたい」とも思います。

 

でも現実に立ちかえると、そんなのは頭でっかちの理想論でしかない、とつくづく痛感します。

 

今回のように子どもがぐずると、ぼくら夫婦の中では「5月病かな」「連休中楽しいことばかりだったから、一時的に行きたくなくなったのかな」となります。

 

実際は、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

いずれにしても、今のところ「休ませよう」とはなっていません。

明確に「行きたくない」とは言わないし、帰ってくる頃には元気になっているので、そこまで深刻じゃない、という判断です。

 

同時に「そのくらいで簡単に休ませていたら、今後ずっと行かないと言い出したらどうしよう」という不安もあります。

 

でも、ふと考えます。

 

「深刻かどうか」は本人にしか判断できないこと。そもそも親が行かせる、行かせないの線引きをするのはとても危険なんじゃないか。唯一の判断軸は、本人が「行きたいかどうか」であるべきなんじゃないか、ということ。

 

そしてもう一つ、親が線引きしている限り、子どもはどんなに悩みが増していっても「行きたくない」とは言えないんじゃないか。

そして少しずつ子どもは追い詰められていくのかもしれない。

 

幸いぼく自身は、特に大きな悩みもなく子ども時代を過ごしました。日曜日の夜や、夏休み明けに「行きたくないな~」「だるいな~」というのはしょっちゅうでしたが、学校が嫌い、というのではありませんでした。

 

だからといって、子どもが同じとは限らない、というのは肝に銘じておきたい。

 

逃げることができず、我慢して我慢して最悪の道を選んでしまうことを想像したら、ちょっとしたことですぐ休みたがる、くらいになってくれた方がよほどマシです。

 

ただし、子どもに「休んでいいよ」と言うのは簡単でも、実際に日中に世話をするのは奥さん。彼女の同意は欠かせません。

 

子どもたちにとって「逃げることを許してくれる親」と思ってもらうために、まずは夫婦で腹をわって話し合うところからはじめていきたいと思います。

ウォーキング・デッドがつまらない

自分の好みが変わったのか、それとも相手が変わったのか・・・

あんなに愛してやまなかったウォーキング・デッドへの想いが、薄れつつあります。

 

その兆候はシーズン6の後半あたりから。なんだかやたらに恐怖ばかり煽る展開にやや食傷気味でした。

 

そしてシーズン7の初回。あまりにも惨いシーン。一度は完全に心が離れました。

しかし今後の見ごたえある復讐劇の布石かもしれないそのためにはあのシーンも必要だったのかもしれない。

そう思い直し観つづけていたのに、繰り広げられるのは退屈な小話ばかり。最後に少しだけ盛り上げてシーズン7は終了してしまいました。

 

 

前にこのシリーズについて激賞するブログを書いたとき、ぼくは「ショックと安堵のさじ加減が絶妙で、クセになる」と記しています。

 

その流れで語るとすれば、このシーズン7は、「ショック」の面ばかりどんどん過激になり、「安堵感」がほとんどない。たまにあったとしても、その描き方が極めて雑です。

だから疲れてくるのです。

 

そしてこの手の作品は設定が現実離れしているからこそ、細かいところにリアリティが欲しいところ。それなのに、目の前に敵がいるのにグズグズして撃たないとか、反対に、どう考えても絶体絶命のところを適当な乱闘で切り抜けてしまうとか。すっかり三流ドラマな感じなのです。

 

 

世の中的にどう評価されているのかはわかりませんが、ぼくの中ではもう「お気に入り」から外れつつあります。スリルやストーリーの面白さ、ディテールのリアリティでは「ゲームオブスローンズ」「ナルコス」「ホームランド」などの圧勝です。

 

あんなに好きだったドラマが、このままつまらなくなってしまうのは寂しいですが。

う~ん、とりあえずニーガンがいなくなるまでは、きっとこんな調子なんでしょうね。残念です。