にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

「ネット」との付き合い方

世の中に「ぜったい」ということはそうそうない。これまでの人生経験から、なんとなく感じている。きっと、だいたいの人はそうだと思う。


 

だかテレビでもネットでもよく見かける、なにかを型にはめた「言い切り型」の記事は、「まゆつば」なものも多いはずだ。それが嘘でなくても、自分の主張したいことだけを取り上げ、そうでないことは意図的に見えないようにする、ということもあるだろう。

2つの対立した言い分がある場合、ある程度両方を客観的に見て、自分なりの判断をする必要があると思う。


 

なんだけど、ツイッターやネットのニュースでは、「見るか見ないか」は自分の指しだい。気が付けば、「自分の考えにあうもの」ばかりクリックしてしまっている。そうでないことが書いてありそうな記事は、タイトルだけみて「読む価値なし」と読み飛ばす。そうなると、だんだんと考えが偏ってくる。場合によっては、ふつうの人から見たら明らかにデマに入る類のものでさえ、信じ込んでしまうかもしれない。

 


自分の中でおさまっていればまだいい。「自分の考え」に合う記事はシェアしたくなるのが人情というもの。そうして「同じ考え」をもつ人たちの間にどんどん広がっていく。


 

そんな風にして、ネットでは正反対の意見を主張しあうグループがはげしく対立する構図ができてくるのだろう。どちらかに属する人にとっては、中立の「どちらの言い分もわかる」という人は、「敵」でしかない。

そういうのは、やっぱり疲れる。

面と向かって、いち人間として向き合えば、一人ひとりは「世の中に『ぜったい』はない」こともちゃんとわかっている、まともな人ばかりなんだと思う。


 

ついメールやラインで簡単にすませがちなことも、たまには面と向かって、表情を見ながら、相手の気持ちを思いやり会話をする、ということを大事にしていきたと思う。

子どもに胸を張れるか

会社でもそれ以外でも、いい人だな、と思える人がいる。いつも穏やかで、誰にでも分け隔てなく接し、何より人の悪口を言わない。


悪口や陰口というのはなかなかやっかいで、言っている本人は、自分の方が正しく、優位に立っているという錯覚に陥ってくる。それを聞かされる人も、内心どこかで「自分もいないところで誰かに言われてるんだろうな」と疑心暗鬼が生まれ、少しでも優位に立ちたい気持ちから自分も悪口を言う方に回ってしまう。

負の連鎖だ。


一方で、それを言わない人というのはまわりに安心感を与えてくれる。

実際にはそう簡単なことではない。

ぼくだって気づけばつい誰かを悪く言っている。


きっと本人の心がけはもちろん、育った環境や生まれ持った性格によるところもあるのだろう。


子どもにはそうあってもらいたいと思う。

きっと口で100回言い聞かせても教えられることではない。


両親の普段の生き方を見て、自然と染み込むように身につくのだと思う。


まだまだ未熟な親だけど、心のどこかで常に「子どもに胸を張れる自分かどうか」を意識して生きていきたい。




ブランディングとかそのへんのことについて

ぼくの働く業界では、ブランディングとか、ロイヤリティとか、エンゲージメントとかの言葉が頻繁に使われます。「業界」なんて他人事のように書きましたが、かくいうぼく自身も油断すると、すぐに口をついてこれらの言葉が出てきます。

 


なんだかわかるようなわからない言葉を並べてしまうのは、自分の語る内容に自信がないからとも思いますが、まあそれはともかく。


 

これってつまり、自分の企業なり商品なりの「ファン」になってもらいたい、ということですよね。

 


ぼくは西武ファンですが、ときどき「ファンってなんだろう」と考えます。プロ野球の世界では、トレードやFAで選手が入れ替わることがしばしば。そうでなくても、引退がつきもので、ぼくが小学生の頃応援していたときの選手は、当然もう一人もプレーしていません。それでもぼくは西武ファンでありつづけているわけです。

そこに継続しているのは「西武ライオンズ」という名前だけ。

でもその名前のついたチームを愛し続け、そこに所属する選手を熱狂的に応援し続けているのです。


 

ではファンになったきっかけは何か。ぼくの場合は母親がライオンズを応援していたこと。なんとなく自分も肩入れして見ていると、当時絶頂期だったチームは毎年のようにリーグ優勝。とても大きな喜びを与えてくれるのです。そうなるとますます愛は深まります。気づけばかれこれ30年。強くても弱くても浮気をせずに愛し続けるファンができあがっていたのです。

最近はライオンズもご多聞にもれず、グッズや金銭的な優待などファンサービスが充実しています。でも一番はやはりチームが勝ってくれること。そして選手と触れ合えること。プロ野球チームにとっての「本質」「価値」はそこにあります。


 

そう考えると、ファンづくりに必要なのは、どれだけ多くの「リターン」を与えられるか、ということかもしれません。

ここでいうリターンというのは、嬉しさや幸せなど、つまり「感動」です。そして「応援してよかった」「ファンでよかった」と思ってもらう回数が多ければ多いほど、熱烈なファンになってくれるはず。

 


顧客サービスというと、ついポイントなど経済的なメリットに頼りがちですが、それだけでなく「なぜ来てくれるのか、買ってくれるのか」という点を掘り下げ、その「本質」をさらに充足させ「感動」を与える、という視点で考えてみるというのも必要なことかもしれません。

ほんとうに好きなこと

最近、あまりいろんなことにやる気が起きないとこのブログに書いた。

それは相変わらず続いているのだけれど、じゃあ何をして過ごしているのかというと、野球観戦、野球ゲーム、映画・マンガ、草野球にそなえたランニング・肩づくり。ほぼこれですべてである。

 

ほとんど野球がらみ。こんなときに自然とやりたくなることこそ、ほんとに「自分の好きなこと」なんだろうと思う。

「好きを仕事に」とはよく言われるが、これまでぼくは野球に関連する仕事につきたいと思ったことはなかった。球団職員などの求人を目にして興味を憶えても、応募する気にはなれなかった。「仕事」として接する野球のことを、万一にでも嫌いになったり、「もう野球のことは考えたくない」と思ってしまうことを恐れていたからだ。

 

でも、ちょっと考え方が狭すぎたかもしれない。たとえばぼくのような「ファン」を相手にする仕事だってある。草野球をもっとうまくなりたいと思う人向けのことだって考えられるかもしれない。自分のフォームを録画してくれるバッティングセンターがあったら、きっと通うだろう。自分だったら「こんなのが欲しい」と思うことを考えてみるのは楽しい。そんなことを少しずつ始めてみようと思った。

幸せの秘訣

昨日のNHKスペシャルで、夫婦関係を良好に保つ秘訣として「手を握り合い、向かい合って話す」というのをやっていた。

そうすると、相手に対して愛情深くなる「エストロゲン」が分泌されやすくなるそうだ。

 

たしかに「触れ合う」ことの、気持ちを安らげてくれる効果は大きいと日々感じる。

子どもと手をつないだり頬をなでたりするとき、ぼくの方が癒されている。昔実家で飼っていた犬や猫とじゃれあっているときも同じ気持ちだった。

このとき「エストロゲン」が放出されていたのだと思う。

 

これは人間に限らないかもしれない。動物だって親しい相手とは触れ合いたがる。猫が甘えてくるときはひたすら体をこすりつけてくるしね。

猫はああしてエストロゲンを発生させているのだろうか。

 

人や動物にとっての幸せって、実はシンプルで「触れ合う相手がいる」ことかもしれない。

「失う」ことと「ない」ことの違いについて

「光」という映画を観た。


永瀬正敏演じる中森という名のカメラマンが弱視を患い、やがて完全に視力を失っていく絶望の中で、水崎綾女演じる、映画の音声ガイドを仕事とする女性と出会い惹かれあっていく、というストーリー。


この映画を観ながらぼんやりと考えたことがある。

それは、持っていたものを「失う」ことの恐怖について。


生まれつき視力のない人がいる。

もちろん不便はあるだろうし、辛い思いをすることもあるだろう。その気持ちはぼくには分かりようがない。

ももしかしたら、人が空を飛べないように、水の中では息ができないように、様々な「元々できないこと」のひとつとして受け入れることができたら。「見えないこと」は恐怖や絶望という感情とつながることはないのかもしれない。


でも「失う」としたらどうだろう。


ぼくは視力は悪くないが、角膜がとても傷つきやすく、ちょっと何かが当たっただけで猛烈な痛みに襲われ、目を開けられなくなる。


つい先日も、座っているぼくの膝に乗ってこようとした次男の指が目に当たりダウン。そのまま一週間以上会社を休むことになってしまった。


その間はひたすら家の中で目を閉じて過ごすしかない。

平時の一週間はあっという間だが、痛みに耐えて堅く目を閉じて過ごす一週間はとんでもなく長い。そしてその間何度も「このまま治らなかったらどうしよう」という気持ちに襲われる。


野球を観ることができない。映画やドラマも楽しめない。マンガも読めない。仕事だって変えなきゃいけないだろう。そしてもう子どもの顔を見ることができない。


それは圧倒的な恐怖感だ。


視力を「もっている」から、失うことを恐れてしまう。


そしてそれは視力に限らないはずだ。


生まれながらにして授かったあらゆる身体的能力、家族や友人などの人間関係、お金もそうだろう。


その点、子どもは今の自分がすべて。比べる対象を知らない。なんて自由なんだろう。



「失う恐怖」を知ってしまう、ということが大人になるということなのかもしれない。

朝の通勤電車で

最近ブログをサボりがちだ。

いや、ブログだけじゃない。オンライン英会話も隔月でやろうと思っていたが、4ヶ月目にして、休止したまま再開の意欲がどうしても湧いてこない。


1日1章読み進めようと思っていた仕事関連の本もしかり。続きのページが開かれることなく、本棚で眠っている。


なんだか、いろんな「ちょっとがんばろう」の糸がぷっつり切れてしまったような感覚。


どれもそんなに大したことじゃないけど、自分の中ではそれなりの「義務感」があり、心のどこかでいつもプレッシャーと戦っていた。


それを乗り越えてやれば達成感があるし、続けていると確かな進歩も感じる。

それはわかっているけど、「さあやろう」という気になれない。


もともと自堕落な自分が、ちょっとがんばりすぎていたのかもしれない。一度糸が切れると、その反動は大きくなかなか元に戻らない。


これじゃいかんな、と思う気持ちは当然ある。でも一方で、まあこういうこともある、やる気が出てくるまでダラダラ過ごそう、と考えていた。


そんな中で、なぜ今日ブログを書こうと思ったか。


今朝の通勤電車。ぼくはいつもドアの脇に立つ。スマホを手に取りツイッターを一通り眺めたあと、何気なく車内を見渡した。


ほとんどの乗客がスマホをいじっているのだが、みんなそれでどんなことをしているのか、近くの人をさり気なく覗いてみた。


パズル的なゲームをしている女性がまず目に入り、次にその隣の女性。それはシートの一番端っこで、ぼくが立つ場所から透明の衝立を挟んで斜め下に位置する。つまり、気づかれない角度から、彼女のスマホが丸見えなのである。


彼女は一心不乱に文字を打っていた。

初めはメールと思った。申し訳ないけど、文面まではっきり読める。

内容はどうもメールではない。それは小説のようだった。


彼女はスマホで執筆していた。


画面にはほんの数行が映っているだけだけど、つい引き込まれるような、続きが読みたい気持ちにさせるうまい文章だった。


彼女にとって単なる趣味なのか、仕事の一部か、それはわからない。

でもこんな身近な朝の通勤電車で、自分の表現の腕を磨いている人がいる。それはなんだな爽やかな気持ちにさせてくれた。「オレもまたちょっとずつがんばろう」そう思った。


見ず知らずの作家さん、ありがとう。

いつかあの続きを読みたいなあ。