にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

あぁ、自己嫌悪

ある人の言葉に、ちょっと腹が立った。


どちらかといえば、選ぶ言葉に相手への気遣いが足りない人で 、本人は無自覚のようなのだけど、気分を害されることがしばしばある。


かといってこちらが声を荒げて抗議するほどのことではない。ましてや職場の中だし。


ということでイライラを飲み込んだ。


そこまではいつものことだ。


でもしばらくして、別の同僚とその人の話になった。彼はなんのためらいもなく、その人を悪く言っていた。


気づけばぼくもそこに乗っていた。

次から次に悪口が口をついて出た。

スッキリした。


でもそれは一瞬だった。


やっぱり、本人に直接言えない不満を陰で発散させるのはカッコ悪い。


その場で言わないなら、他でも言わない。

言いたいことは本人に言う。


まがりなりにも40歳二児の父親なのだ。

子どもたちに胸を張れる自分でありたいと思う。


40才

40才になった。

 

過去に兄弟や知人がその年齢を迎えたときには、「あの人も40代か」と妙な感慨があったのだけれど、いざ自分の番がくると、驚くほど何の気持ちも生まれなかった。

 


最近ちょっと仕事が忙しくて、あまり余裕がないということも関係しているかもしれない。

ヒマであれこれ考える時間が多いと、「今年こそ~」なんて決意もあったかもしれない。

 


とにもかくにも40才だ。仕事の忙しさにかまけていると、あっという間にこの節目も流されていきそうなので、ちょっと立ち止まってみることにした。

 


この1年くらい、わりと新しい楽しみが見つかっている。草野球は以前からだがキャンプや登山にハマりはじめた。ポケモンGOもそうだし水滸伝もしかり。Netflixhuluでも新しいドラマに出会ったし、マンガも面白い。


 

40才は人生の折り返しの年齢かもしれないが、日々楽しみが増えているのは嬉しい。40代は仕事も趣味も、さらにいろんなことを始めてみたい。

 


このブログも、そんな記録になっていったらいいなと思う。

「ない」ことと「失う」こと。(その2)

友人から聞いた話。職場の、ある上の方の人から電話がかかってきて「今度こんな仕事を頼みたいと思っている」と言われた。ただし組織のライン上は、彼の上長は別の部長から、ちゃんとそっちから話を通すので今は知らないことにしておいてほしい、と。

 


友人は嬉しかった。今はどちらかというと事務的なルーティン業務が中心で、特に不満というわけではないが、もう少し大きな仕事にも関わってみたいと思っていた。そんなときに非公式とはいえ、全社横断の大きなプロジェクトメンバーに携わってほしいと声をかけられたのだ。

彼は俄然やる気になった。関わったときに少しでも貢献したいと、すぐにWEBで情報収集したり、関連書籍にも目を通したりし始めた。

 


そんなある日、別件で同僚と得意先に出かける途中の何気ない会話だった。友人はありがちな質問を投げかけた。「最近忙しいんですか?」

同僚「そうですね~。ちょっといろいろ仕事が降ってきちゃって。昨日も部長から●●の案件をやってくれって言われて・・・」


 

友人が前に打診された仕事は、いつの間にかその同僚の担当になっていたのだ。

 

当然ながら彼はショックだった。もともと非公式に聞かされた話だから、部長に「なぜ自分じゃのか」なんて尋ねるわけにはいかない。最初に打診してきた人にしても、公式に決裁権のある部長の判断に口をはさむわけにはいかないだろう。

 

 

友人はその話をぼくにしながら、一気に今の仕事に対するモチベーションも下がったと言っていた。気持ちはよくわかる。同じ状況だったらぼくもそうなっていたと思う。

 

 

この流れを外から見たら、単純に上司である部長から、部下であるその同僚に仕事が投げられた、というだけの話だ。友人当人以外にとっては、何の不思議も理不尽もない。そこがまた彼にとってはやり場のない悔しさにつながっている。

 

きっと友人も、最初の打診さえなければ、今回のことに心を乱されることは何一つなかったはずだ。今の仕事は多少退屈だけど、早く帰れるし、これはこれでいいといつも言っていた。

 

もともと「ない」ことに不満はなかった。けれど事前の一本の電話によって、彼にとってはその仕事を「失った」ことになってしまったのだ。

 

 

 

その話を聞いて友人のことを気の毒に思いながらも、ぼくはなんだか不思議な気持ちがした。

人の幸や不幸は、これほど微妙なもの左右され、揺れ動いている。なんて脆いんだろう。

会社員である以上、そのシステムにはまって働くのは仕方がない。でも幸せまでもがそこに振り回されるのは、なんだかバカバカしい。

 


結局のところ、そのときできることにベストを尽くしながら、自分がコントロールできないものには程よく諦めの気持ちをもって対する。そんな心のありようが理想的なのかもしれない。

 


なかなか難しいですけどね。

読書感想文「水滸伝」(北方謙三 著)

シリーズを読み続けた半年間、シビれっぱなしでした。

 


19巻を読破してから数か月。その間何度もこの作品について書こうと思ったけれど、自分の受けた衝撃の大きさを表現できるとはとても思えず、取り掛かれない日々。


 

そして続編「楊令伝の存在気になって仕方がない。でも読み始めたら最後、他のものが一切手につかなくなることが分かっている。水滸伝が一区切りした段階で、しばらく放っておいた他の本やマンガに取り掛かろうと、我慢していました。

 


8月に入り満を持して手に取った楊令伝。やはり面白い。止まらない。

この調子だと水滸伝を振り返ることができないまま、どんどん時が過ぎ去り、楊令伝・岳飛伝と積み重なっていくばかり。そんな焦りが生まれてきて、ようやく書いてみる踏ん切りがつきました。


 

そんな水滸伝う~ん「スゴイ」という言葉しか出てこない。

あるいは、「最高」「ヤバい」「マーベラスか…。 


何かを「語る」ことがヤボで陳腐なことに思えてしまう。ケタ外れにとんでもない傑作。

とにかく人生でもっとも読書に熱中した体験を与えてくれたのがこの作品です。

 


中国・北宋末期の時代。腐敗しきった国家を打ち破るべく“志”のもと梁山泊に集う同志と、敵対する宋王朝との死闘の物語。


 

比類なきカリスマ、稀代の豪傑、天才的頭脳をもつ参謀など「スーパースター」もいれば、陰で支える間者や料理人、飛脚など「脇役」もいる。それぞれが背負う人生と心に秘めた誇りが登場人物ごとに丹念に描かれ、そのすべてが胸に迫ってきます。

 


「敵」である宋側もしか。それぞれに戦う理由や意地、迷い、そして矜持をもつ「血の通った」一人の人間として梁山泊に立ちはだかります。


 

世界中に同じ人間は一人もいないように、水滸伝に登場する膨大な数の人物は、一人ひとりが違った光を放っています。明るい光もあれば、かすかな光もある。でもそのどれもが個性をもち、全員が「輝いて」いるのです。

 


語ることがヤボと言いつつ、もっともらしいことを書き連ねてしまいましたが、つまりはカッコよく、愛しく、切ない、エンターテイメントのすべてがつまった大娯楽作品であります。


 

読んで損なし。でもその間は熱中しすぎて他のことが手につかなくなる覚悟をしておくことを忠告します。

 

「テレビのレベル低下」について思うこと

テレビ制作現場の人が劣化している、という話題をたまに見かける。

たしかに、誰かのツイートを、真偽の確認もせずに放送するなんていうのはいかにも今どきのミスだし、いただけないと思う。


じゃあたとえば、北朝鮮のミサイル射程範囲をメルカトル図法同心円で表してしまった、というのはどうだろう。これもツイッターで拡散されて盛り上がっていた。ぼくは放送を見ていなかったが、ツイッターで見かけて「現場の劣化といわれるのもうなずけるな~」と思った。


 

そこでふと立ち止まってみたのだが、じゃあ果たしてぼくが放送を見ていたら「おかしい」と気づけたのか。自分が制作現場にいたら、そのミスは防げたのか。残念ながらその可能性は限りなく低い。メルカトル図法に等間隔の同心円が当てはまらないことは、指摘さて初めて言われてみたらそうだな」という程度の知識しかない。

だとしたら少なくとも自分はそのミスを笑いものにする資格はない。

 


何が言いたいかというと、きっとミスは昔からあった。でもそのほとんどは、放送を見た人の中だけでとどまっていた。広がるにしてもせいぜいお茶の間や職場で話す程度だろう。


今はそれが記録され、検証され、放送を見ていない人にまで広がっていく。仮に放送を見ていてもミスに気付かなかっただろう人まで、批判する側にまわることができる。

 


この結果どうなるか。きっと制作現場はどんどん萎縮するだろう。面白いこと、視聴者を楽しませることよりも「ミスがないこと」「正しいこと」を最優先させるようになる。そんなテレビはつまらない、と視聴者はますますWEBに流れ、視聴率は低迷し、スポンサーは離れていくのだろう。


ぼくはもはやテレビは、スポーツ中継とニュースを見るくらいだ。でも先日書いた「下北沢ダイハード」のように、もっともっと面白い番組を見たい。テレビには元気であってほしい。だとしたら、ミスにはもう少し寛容でありたいなと思う。

「下北沢ダイハード」が面白い

最近はすっかり海外ドラマにシフトしていたのですが、たまたま何かの記事でテレビ東京系列の「下北沢ダイハード」が面白いというのを目にして、試しに見てみました。


 

確かに面白い。おそらく制作費はそれほどかかってないのでしょうが、アイデアと演出、俳優の技量によってこんなに楽しめるものが作れるのか、と唸ってしまいました。何話か見たのですが、毎回脚本・監督が異なるにも関わらず、同じようにおもしろいのです。

 

 

で、ドラマに興味をもつきっかけになった記事の話に戻ります。

それはこのプロデューサーのインタビュー記事でした。

そこで語られていたドラマの「コンセプト」がとてもよかったのです。

 


そのコンセプトとは「『寄りで見ると悲劇、引きで見ると喜劇』を描く」というもの。


 

この考え方はきっとコメディ全般に当てはまるものだと思いますが、これほど明確に言葉にしたとき、なんだか人生を楽しく生きるコツでもあるような気がしたのです。

 


すごく腹が立った経験をしても、時間が経つと笑い話になるってよくありますよね。それも結局「引き」で見られるようになったということだと思うんです。


 

もし意識して自在に「引き」の視点をもてるようになったら、たいがいのことはそれほど悩まず、イライラせず、気楽に生きていけるんじゃないか。そんな気がします。

 


もちろんそう簡単に済む話でないこともあると思います。でも「寄りで見ると悲劇、引きで見ると喜劇」は、これからのぼくの人生において、いつも脳みその片すみに置いておきたい、お気に入りのことばになったのでした。

うんこの台頭

 

なんだか下品なタイトルですみません。

いや、それがもう「下品」ではないのかという、良い意味でショックをうけた話です。

 


先日、小学校関連の行事で子ども連れで登山に行ったときのこと。

参加していた小2の男の子が、山頂で「お腹が痛い」「トイレに行きたい」と言い出したのです。

登山といっても上り40分程度の軽い山で、携帯トイレなんて誰も持っていません。

小ならそのへんでどうにでもなりますが、大となると周りに他の登山者も大勢いるし、どうしよう・・と大人たちは慌てました。


 

結局、彼自身が「もうちょっと頑張れそう」ということで、下山まで耐え抜き事なきを得たので一安心でした。

 


そんな中、ぼくがひそかに驚いたのは、子ども同士で「ヤバいうんこしたい」「大丈夫か?」とか、「間に合った?」「すげえでっかいのが出た」なんて会話をしていることです。

 


自分の子ども時代、「うんこ」はまさに鬼門でした。

学校で大のトイレを使うなんてとんでもなく、授業中にもよおそうものなら、歯を食いしばり全集中力と筋力を肛門に集中させ、帰宅するまで耐えたものでした。

 


人の目を気にせず個室トイレを使えるようになったのは大学くらいからでしょうか。

そのときは大人の階段を一歩上がった気がしたほどです。

 


それなのに・・・今の子どもたちは「間に合った?」「デカいの出た」なんて会話をしている。この様子だ学校でうんこがしたくなっても、平気で用を足せるのかもしれません。

だとしたら、世界はなんて素晴らしく健全なのでしょう!!


 

というのは大げさかもしれませんが、本来当たり前の「うんこをする」ことが、子どもたちにもちゃんと当たり前に受け止められるようになるのはとても良いことに思えます。

 


最近の「うんこドリル」ブームといい、うんこ問題に関しては、確実に時代はいい方向に向かっているようです。