最近「LINEおじさん」という言葉を聞きました。
若い女性の気をひくためにLINEを送ってくるおじさん。たいがいはその文章が「キモイ」「ウザい」ことが想像できます。
耳の痛い話です。
ぼくも会社の若い女性にLINEをすることがあります。
単に業務のLINEですが、それでもその内容には気を遣います。
余計なことを書いてないか、気を悪くされないか、そもそもこの時間帯に送って大丈夫かな、とかとか。
考えれば考えるほど、まわりくどかったり、言い訳がましいことを書いてしまったり。そして我ながら「ウザい」文章ができあがってしまうことがあります。
立派な「LINEおじさん」の出来上がりです。
でもよく考えたら、若い男性社員に送るときはそこまで悩まないわけで、自分では「気をひくため」ではないと思っていても、やっぱりどこかで「好かれたい」「嫌われたくない」という気持ちがあるのでしょう。そしてその気持ちがますますウザい言動を呼び起こし嫌がられる。
おじさんとはつくづく哀しい生き物であります。
あの日
2011年3月11日14時46分。
ぼくは渋谷のオフィスで仕事中だった。
恐ろしい揺れと、天井や壁からパラパラとなんだかわからないものが落ちてくる様子に、生まれて初めて「もしかしたら死ぬかも」と本気で思った。
あの恐怖はいまでも鮮明に覚えている。
4時間かけて、2歳の息子と妊娠中の妻が待つ家まで歩いた。
携帯電話もつながらない中で、次もっと大きな地震がきて家が崩落したら、とか、家族が避難したら会えるのか、とか、歩いている間中ぐるぐる考えていた。
次の日には原発の爆発を知り、しばらくはひたすらPCにへばりついて情報収集をした。
今振り返ると、どれも(自分にとっては)最悪の事態は回避され、家族4人で元気に暮らしている。
でもそれは結果論でしかない。
たまたま自分が悲劇の中心から外れた場所にいただけで、次もそんな幸運に恵まれる保証はどこにもない。
最善の備えと、今の幸せへの感謝と、日々悔いなく生きること。
それを忘れないようにしたい。
イチローに感動する自分
イチローのマリナーズ復帰が発表された。
まさかまたイチローのあのユニフォーム姿を見られる日がくるとは想像していなかった。44歳のシーズンもメジャー契約が叶ったこともあわせて本当に感動したし、「すごい」という言葉すら陳腐に思えるくらいすごいことだと思う。誰かイチローのために新しい形容詞を発明してくれないだろうか。
いち野球ファンとして、イチローをリアルタイムで追い続けていられるのは本当に幸せだ。
大谷がどれくらいやってくれるかとても楽しみではあるけれど、メジャーリーグにおいても「伝説」と称されるほどの存在が出てくることはもうないかもしれない。
ここまで書いてふと思ったのだけど、この感動はやはりイチローが「日本人」であるからに他ならない。
もちろん他国の選手が同じことをしても「すごい」とは思うだろうが、感動には至らないと思える。
ふだんはあまり国籍を意識しないし、「日本」を押し付けられると違和感を覚えるけど、この感覚はなんだろう。
家族が家庭の外で、また学校のクラスメートが学外で活躍すると嬉しい。何らかの「同じコミュニティ」に属する誰かが、その外で何かを成し遂げると、「仲間意識」が刺激されるということかもしれない。
現にイチローが国内で前人未到の200安打を達成したときは、すごいと思ったけど感動した記憶はない。
自分のことながら、考え出すとなかなか面白い意識だな~と感じる。
地方のダサさは大切か
AIR DOの「ちょっとしたダサさ」が好き、という記事を読んだ。
なんでもキレイでオシャレなのがいいわけではなく、むしろ没個性につながってしまう、というのはとてもよく分かる。
ただ、地方に住んでいて何かを発信する側に立つと、「ダサいもの」はつくりたくない。
これはもう本能にも近い抵抗感である。
なぜか。
それは地元の人にとって「恥ずかしくないもの」「誇れるもの」というのを自然と意識してしまうから。
周りの人が「ダサいよね」と思ってしまうものに関わるのは、作り手としてモチベーションが上がらないのである。
でも、ただ洗練されるだけならつまらない、というのはその通りで、その地方ならではの「シズル」「らしさ」を感じられるか。そこがきわめて重要なのだと思う。
その点はデザイナーやクリエイターのセンスというほかはないけれど。
ネタなし
今日は何を書いてよいやら、さっぱり思いつかない。
朝から仕事に終われ、あっという間にこの時間だ。
今日のダーリンで糸井さんが書いていたことに共感して、「このことについて書こう」と思ったような気がするけれど、それがどんなことだったか今となっては思い出せない。
ただ「毎日書く」ためのだけに、こうして帰りの電車でやっつけの文章を書くことに何の意味があるのかわからないけど(たぶん何の意味もない)、書かないと気持ち悪いので書いておく。
早く帰ってゲームオブスローンズ観よう。
「悪口」の誘惑
人の悪口というのはとても魅力的だ。
話しているときは、「自分の方が優れている」と思えるからだ。
だけど聞いている方はどうか。
内心ではなんとなく「こいつも人のこと言えないよな」「別のところでは自分の悪口も言われてるんだろうな」なんて思っている。
そして当人も、言い終わった後ふと冷静になると、どこかに後味の悪さが残っている。
つまり、いいことは何一つない。
わかっちゃいるけど言ってしまう。
それが悪口だ。
「いいことは何一つない」
常に自分に言い聞かせておきたいことだ。
最強の広告
「やっぱりイナバ、100人乗っても大丈夫!」
最後にこのCMを見たのがいつか、定かではないけれど、記憶には鮮明にこびりついている。
自分が大人になって戸建の家を買うことになったときにも自然と、物置なら「イナバ」が一番のメーカーと思っていた。ちょっと検索してみたところ、今でも40%近くの業界トップシェアを占めているようだ。
物置については、素人にはあまり専門的な知識がない中で、でも一生モノに近い買い物である。そうなるとやはり「トップブランド」が強い。多少高価でも「信頼できること」が何より重要だからだ。
いざ購入を考えたときに、おそらく(少なくともぼく以上の世代は)ほとんどの人が「やっぱりイナバ〜」を思い出すだろう。そしてあのコピーのすごいところは、「物置=イナバ」だけでなく「イナバ=驚くほど丈夫にできている」というイメージまで刷り込んでいることだ。
もちろん今の時代はWEBで比較・検討するだろう。多くのクチコミも参考にするに違いない。
製品やサービスが伴っているからこそ、トップシェアを維持できているのだろう。
ただ、あの刷り込まれたイメージがあることで、多少の価格差を乗り越えて選ばれる場面も多いと想像できる。また、社員一人ひとりにも「あのイナバ物置」を売っているというプライドや責任感が芽生え、それが高品質の商品・サービスにつながるという好循環が生まれているはずだ。
そう考えると、あのCM・キャッチコピーがイナバ物置にもたらした効果は、文字通り計り知れないくらい絶大だと思う。
「好きな広告」はいろいろあれど、自分にとって「すごい広告」と言われて真っ先に思い浮かぶのは、「イナバ物置」を置いてほかにない。