にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

「きよきよしい」に学ぶこと

サッカー日本代表本田圭佑がインタビューで心境を聞かれて「きよきよしい」と答えたというのが話題になっていた。

どうやら「清々しい(すがすがしい)」をずっと読み間違っていたらしい。言葉を勘違いして憶えているというのは誰しもあるだろうし、それで恥ずかしい思いをしたことがぼくにもある。

 

でも間違ったあとにどう振る舞うか。そこが世界のHONDAだった。

 

読み間違いを取り上げる記事「本田圭佑、W杯終え『きよきよしい』 『清々しい』を誤読?で総ツッコミ」をRTしつつ、こんなコメントをした。

 

「お恥ずかしい。漢字が苦手で。でも、もうしっかり覚えました。」

 

あまりにも潔い。かっこいいな~と思った。

本田のことがもっと好きになった。

 

誰しも間違ったり勘違いしたりすることはあるけど、間違うこと自体が恥ずかしいのではなくて、それを取り繕ったり弁解することが恥ずかしいふるまいなんだと気付かされた。

息子の成績。ブレるジブン。

長男が全国統一テストなるものの結果を持って帰ってきた。

 

100点満点の60点台。ほぼ平均か、少しだけいいくらいだった。

ちょっと驚いた。

ぼくはふだん子どものテストは見ていない。奥さんからはだいたいいい点数だと聞いていたし、日常の会話からもアタマの出来は良い方だと感じているから、少なくとも小学校の勉強は放っておいても簡単にこなすんだろうと思っていた。

 

という前提があるから、今は勉強なんてほどほどでよくて、とにかくたくさん遊んで、カラダを動かして、いろんなことに興味をもってほしいと思っていた。

 

その考えが、今回の点数を見ていきなり揺らいでしまった。まだ4年生だし勉強なんて二の次でいいなんて思ってたのに、急に「このままで大丈夫なんだろうか」なんて思い始めた。

 

あっけなく方針が揺らいでしまうのが我ながらなんとも情けない。

 

自分のことじゃないからなおさら心配になるし、しかも子どもの教育というのは、何が正しいかなんてまったく答えがないものだ。

 

でもやっぱり、彼らを戸惑わせないためにもできるだけブレたくはない。

まだ4年生。学力はこれからいくらでも挽回可能だ。もうしばらくはのびのびとさせてみよう。

 

 

 

見事な敗戦

素晴らしい試合だった。最後の最後までいけると思って観ていたし、どちらに転んでもおかしくなかったと思う。

試合終了直後はあまりの衝撃的な結末に茫然としてしまった。当人たちの悔しさは察するに余りある。でもにわかファンとしては「歴史が塗り替わる瞬間」を目撃するかもしれない、というものすごい興奮を味あわせてくれた日本代表に「感動をありがとう」と言いたい。

 

と、そこでふと思った。

負けてなお「良い試合だった」と満足感に浸れるのは、やはりぼくがにわかファンだからなのだろう。

30年来応援している西武ライオンズの試合であれば、どんなに接戦だろうと最後に負けてしまっては腹立たしさしか残らない。いつも「本気で」勝てると信じ、「本気で」勝利を願って観戦しているから、負けたら自分のことのように悔しいのだ。

さあ決勝トーナメント

ぼくの人生におけるスポーツ3大名シーンというのがある(西武ライオンズ関連を除く)。ひとつは長野オリンピックでの原田の大ジャンプ。もう一つはWBC決勝でのイチローによる勝ち越しタイムリー。そして2015年ラグビーW杯で日本代表が南アフリカを破った逆転トライ。どれもテレビを観ながら我を忘れて絶叫した記憶がある。

 

いずれもその試合単体ではなく、過去から続く失敗や低迷の歴史を跳ね返しての「大逆転ストーリー」であるところが感動を特別なものにしている。

 

そこで今日のサッカー日本代表戦である。選手選考からバッシングにさらされ、予選通過してもその戦術にケチをつけられ、わりと散々である。そこにきて世界3位の強豪との決勝トーナメント。きっと負けたらこれまでの快進撃もなかったかのように否定的批判の嵐にさらされるだろう。

 

ぜひとも勝って、サッカー界の歴史を塗り替える「大逆転ストーリー」を見せてほしい。

「肩書き」とうまく付き合うには

会社のポストというのは特殊な「属性」だ。時間の経過とともに変わる。ときには下がったりもする。オーナーでもない限りはどんな役職でもサラリーマンだ。上司から給料をもらっているわけではない。人事権を握られてたりすると立場は弱くならざるをえないけれど、基本的には「役割」が違うだけで、人としての上下ではないはずだ。

 

西武ライオンズ松井稼頭央という選手がいる。PL学園からライオンズに入団し球界を代表する遊撃手として大活躍。その後メジャー移籍、楽天を経て今年から西武に復帰している。すでに名球会入りをし、生涯年俸は数十億に達するというまさに「大物」だ。

 

でも現在のライオンズではレギュラーではない。チームは68試合を終えた時点で、出場はわずか12試合、22打席にとどまっている。きっと年俸だって一軍選手の中では下から数えた方が早いだろう。無理やり会社に例えるとしたら、昔は泣く子もだまる出世頭だったのが、現在はイチ平社員になっているようなものかもしれない。

 

それでも松井には、松井にしかできない役割がある。今は戦力としての順位は高くないかもしれないが、彼の存在は若いチームにおいて教科書であり、精神的支柱になっている。バリバリの主力選手たちにとっても、彼はレジェンドでありリスペクトの対象なのだ。

 

何が言いたいかというと、会社にもそういう人間関係があるといいな、とふと思った。つまり役職は「役割」として便宜的に存在するけれど、過度に上下関係を意識することなく、その人がもっている魅力や能力を純粋にリスペクトしあう関係だ。たまたまマネジメントが向いていれば役職は上がりやすいかもしれないが、現場の能力としてはもっと有能な人がいる場合もある。現実には役職が違えば給料だって違うから、素直に認め合うのはなかなか難しいかもしれないが、それなら野球選手だって同じことだ。健全なライバル心とリスペクト。その2つが併存すれば、会社はもっと素敵なコミュニティになれるんじゃないだろうか。

かわいい息子

今日帰宅したときには、子どもたちはもう寝る時間で寝室に行っていた。

 

ドアを開けて見ると、タヌキ寝入りをしている。次男は、いつもぼくが使っているアイマスクがわりのタオルを顔にかけて寝たふりだ。じーっと覗いていると二人とも我慢できずに笑いだす。「無邪気」ということばをそのまま絵に描いたような笑顔に癒される。「かわいいなあ」と思う。

 

何歳まで子どものことをかわいいと思えるのかな、なんて思ってるうちにもう10歳と7歳だ。疲れたときにささくれた心のカドをとって、丸くなめらかな気持ちにしてくれる彼らにいつも感謝している。

 

自由をください

ぼくは西武を応援するのがほとんど人生の一部みたいになっている人間なのだけど、実は球場での「応援」が苦手だ。

もっと正確に言うと、外野席で応援団の指示に合わせて一斉に同じことをやるというのが苦手だ。

応援団そのものを否定するわけではない。ちょっと離れた内野席で観戦していると、チャンステーマなどで気分が盛り上がるし、自然とメロディにあわせて手拍子しているときだってある。でもビジター球場だと、そもそも西武の応援は一部の席でしかできない。自動的に応援団に囲まれることになる。攻撃のときはみんな立ち上がってしまって前が見えないから自分も立たなければならない。応援団の「声が小さい!もう一度~!!」なんてがなりたてる声を間近に浴びるハメになってゲンナリしてしまう。決して応援が嫌なのではないけれど、自分がその中に混じって同じ行動を「強いられる」雰囲気は心底苦手だ。

試合前の国歌斉唱もしかり。アナウンスで、全員ご起立くださいと促されるけれど、ぼくは立たない。理由がよくわからないのに、みんなが立っているからといって同じことをするのは、どこか自分の中で気持ちが悪い。もちろん立ちたい人は立てばいいし、そうでない人は立たない、それでいいじゃん。と思うだけだ。

 

「なんとなく」習慣化されていることほど、そこに流されないでいるのはけっこう難易度が高い。「当然やるんでしょ」という“雰囲気”と闘うことになる。別にわざわざ闘う必要もないのかもしれないけど、そこは生まれつきの天邪鬼という性格なのか…

 

できる限りいろんな「しばり」から自由でありたい、と思う。