にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

「子どもとキャッチボール」が悩み

最近、4年生の長男の野球熱が高い。

テレビで観るのも好きだけど、 公園に遊びに行ったりするとすぐに「野球したい」 と言うようになった。

 

生まれたときから息子とのキャッチボールを夢見ていた野球バカの 父親としては、感無量である。と言いたいところだが、 いざそのときが来ると、コトはそう単純でもない。

 

彼が「野球」というのは、 ゴムボールとプラスチックバットでやる野球である。

少し臆病なところがある長男は、 リトルリーグで小学生が使うような軟式球を怖がる。 キャッチボールをしても、 常に体は逃げながらグローブだけを差し出すから、 ほとんどまともに捕ることができないのだ。

 

でもゴムボールとプラスチックバットで、どちらかが投げ、 もう片方が打つ遊びは大好きだ。打った時は、 ベース替わりに置いた木の枝まで全力で走る。投げて打たれたら、 少しでも塁を進ませまいと、これまた必死で追いかける。 だいたい2回表くらいで汗だくになっているが、 本当に楽しそうだ。

 

楽しそうならよさそうなものだけど、 ここで厄介な親心が顔を出す。そんなに好きなら、 少しでも上手になった方がもっと楽しいだろうと、つい「指導」 してしまうのである。「もう少しタイミング早く振ってみ」とか、 「投げるときは踏み出す足に体重をかけてごらん」とか。 でも彼としてはぼくと「対決」しているつもりなのだ。 その途中に「対戦相手」 からあーだこーだ言われて楽しいわけがない。 だんだんと不機嫌になる。「 お父さんから言われたとおりにやったらストライクが入らない」 なんて言い出す始末。

 

やはり楽しいのが一番だと方針転換し、 何も言わずに好きなようにやらせたみたら、 やっぱり投球フォームもバッティングフォームもめちゃくちゃ。 こうすればもっと上手くなるのに、と歯がゆくなってしまう。

 

とても悩ましい。

野球好きの息子と和気あいあいとキャッチボールすることを夢見てたの に、実際は、上達しない彼の相手をし続けることに、 だんだんとストレスを感じるようになってしまった自分がいる。

 

こんなはずじゃなかった。

どうすればよいのか、答えはまだ見つからない…

発言がハナにつく人とそうでない人

かっこいいことが言いたい。デキるやつと思われたい。何かしらコメントや文章を発信するときは、どこかにそんな思いがある。それはぼくだけではなく、twitterやブログをやっている人はだいたいがそうだろうと思う。


でもタイムラインを見ていると、同じようなことを言っていても、そんな自己顕示欲が丸出しの人もいれば、ほとんど感じさせない人もいる。その差はいったいなんだろう。

しばらくモヤモヤしていたのだけど、ハタと気づいた。

きっとコメントそのものの差ではないのだ。


おそらく本人がもつバックグラウンドや実績が大きく関係しているのではないか。

何らかの分野で大きなことを成し遂げている人であれば、多少の説教じみたことを言っても「ふむふむ」「なるほど」となる。でも自分にとってそれほどの存在ではない人が同じことを言うと「何だかハナにつくなー」と感じてしまう。つまり相手の発言そのものではなく、自分にとって、どういう存在であるかが発言の印象まで左右しているということだと思う。


だから同じツイートに対しても、見る人によって受け取り方は千差万別ということだ。

オープンな場に発信するときでも、頭の中には「誰か」をイメージしていることが多い。その人(もしくはその近しい人)と自分の距離感においては伝わる文章も、そうでない人たちにはまったく響かない、むしろネガティブにとらえられていることだってあるだろう。書いてしまえばごく当たり前のことではあるけど、いつでもそのことは意識しておきたい。

がんばれ新聞

今日ツイッターでシェアされてきた記事を読んで、とても共感したので備忘録的に。


新聞は必要なのか?という主旨のコラムなのだが、ここで示されている提言がとても目から鱗の面白い内容だった。


新聞といえば、朝日・毎日が左寄り、読売・産経が右寄りなど、「色」があることが当たり前のようになっている。購読者は当然自分の主張に合うものしか読まないから、お互いの主張が分かり合うことはない。もちろんこれがWEBになると、そもそも自分から情報を取りにいくから、ますます偏ることになる。

そこで新聞だ。本来、自社の主張を叫ぶのがメディアの役割ではない。できる限り公平・中立な視点で事実を報道することが第一の存在意義であるはず。対立する2つの視点があるならば、それぞれの意見を真摯に伝えていく新聞があってもよいのではないか。ぼくが感銘を受けたのはそんな提言だ。


もちろん世の中に「完全な公平・中立」なんてものはありえない。なんらかのフィルターや編集を経る時点でバイアスはかかることになる。それでも大事なのは公平であろうとする真摯な姿勢であり、それが今の新聞には見当たらないことが問題なんだと思う。


たとえば原発。ぼくは原発はない方がいいと思っているけど、世の中には反対派と同じくらい、推進に賛成派がいることも知っている。その人たちが「原発が必要」と思う理由については、反対派のぼくも関心がある。だけどネットの世界には、どちらかの立場にいる人の、あまりに極端な意見しか見つけることができない。しかもその意見はたいていの場合、自分にとって対立する派への憎悪がまぶされている。もしその問題について冷静で客観的な視点をもつ人が、それぞれの主張を整理し、伝えてくれたらとても読んでみたいと思う。


もう少し面白くするなら、朝日と読売の合同企画として、両紙の記者が討論するなんてのはどうだろう。それをお互いが記事にして紙面で公開する。同一の内容をそれぞれがどのように編集するのか、ぜひ両方買って読み比べてみたい。


もちろん、全紙が同じスタンスになってしまうと、それはそれでつまらない。だけどこれまで通り「左の朝日」「右の読売」なんてやり合っているばかりでは「先のない年寄向けメディア」から抜け出ることはないだろう。どの新聞にも一人ひとりの記者には優秀な方もたくさんいることは知っている。そんな人たちが生き生きと活躍できる新聞であってほしいと思う。

体罰反対

いつだったか、ここに「暴力教師」に関する体験談を書いた。その先生はとにかくよく殴る、ときには蹴ると、体罰が日常茶飯事だった。でも指導がとにかく親身で、ぼくも含めた生徒からは愛されていたし、親に聞く限り保護者からの信頼も厚かった。

というわけで、体罰はもちろん褒められた話ではないけれど、ぼくの中では必ずしも暴力をふるう指導者がすべて悪とは思っていない、というのが正直な感覚だった。


でも、である。

先日twitterで、体罰を禁じることで若者の暴力性が劇的に減少したという記事を見た。それは大いにありえるだろう。ぼくはどこかで、本当にどうしようもない連中には暴力もやむなしを考えているところがあるが、奥さんはそんなことはない。子どもたちを見ていても、今は先生の暴力はもちろん、子ども同士でもほとんどないようだ。これはやはり「環境」の影響だろうと思う。その点に関して社会は素晴らしく進歩している。


そう考えると、やはり体罰・暴力は絶対悪である。どんなに本人がそれ以外の部分で人格者でも、たとえ被害者が気にしていなくても、「暴力」そのものはどこかで連鎖を生む危険性をはらんでいるのだ。どんな理由があるにせよ暴力は許されず、根絶されるべき。ぼくもこれからはその意識をしっかりもっていたい。

ひょっこりはん

恥ずかしながら、昨日までひょっこりはんを知らなかった。

子どもがお風呂から出てくるやいなや、素っ裸で顔を隠して「ひょっこりはん」をやっていて「何それ?」となり、家族じゅうから「知らないの~?」と大いにブーイングを受けたしだいである。


テレビといえば野球中継がスポーツニュースくらいしか見なくなって数年、ほんとに芸能人に疎くなってしまったのだけど、まあそれは置いておいたとして。


やっぱりブームとして火が付くには、子どもにウケるというのが必須の要素だなと感じた。ちょっと前の35億しかり、PPAPしかり、昨今のUSAそしてひょっこりはんしかりである。

子どもにウケると、教室であっという間に拡散する。そして家庭でそのネタが披露されることになる。親としては子どもが楽しそうにしているのを見ると、自然と嬉しい気持ちになる。子どもが喜ぶから、その人が出ている番組を積極的に見るようになる。当然そのネタ元の人への好感度も上がっていく。そうしてテレビ局では引っ張りだこになっていく。そんな感じだろうか。


子どもにウケるものは、大半は人を傷つけることもない平和なネタが多い。最近はtwitterを見ていても攻撃的な応酬ばかりを目にして疲れてしまう。ぼくもたまにはテレビも必要かもしれない。ひょっこりはんにはこれからも子どもを笑わせ、大人を癒し続けてほしいと思う。

オーストラリアが好き

オーストラリアの人は明るい。といってもぼくはオーストラリア以外の外国のことをほとんど知らないから、他と比べてどうかはわからない。でもとにかくオーストラリアの人が見せる明るさが好きだ。


知らない人でも、目が合うとニッコリして”Hi,”と声を交わす。お店では販売員のお兄ちゃんが「そのTシャツクールだね!」話しかけてくる。レジで小銭がぴったり払えたら店員のおばさんが”Lovely!”と喜んでくれる。ちょっとしたことだけど、そんないちいちポジティブな反応をしてくれると、こちらは一日いい気分でいられる。そしてまわりにも明るくふるまえるようになる。


あともう一ついいところは、ケアンズゴールドコーストシドニー、パース、いろんな街を転々としたけれど、どこもいちばん美しく素敵な場所が市民に開放されていることだ。パースのkings parkでは平日でも夕方5時を過ぎると、ランチボックスとワインをもった家族があちこちで団らんをしていた。サーファーズパラダイスでは、朝日が昇るころに、どこからともなく初老の男性が海パン一丁にサーフボードを抱えてやってきて、15分くらいサッと波に乗ったあと歩いて帰っていった。


ぼくの目に映るオーストラリアの人は多くが人生を楽しんでいるように見えた。

もちろん、もともとは移民の国だから出自はいろんな人がいるだろう。ひとくちに「国民性」と言ってよいのかよくわからない。でもあの広い大地と青い海に囲まれ、熱い太陽に照らされていると、それだけでベースの幸福度は高いような気がする。

自分が楽しいと人にもやさしくなれる。大きな自然と、そこに住む人も含めてオーストラリアの魅力なんだと思う。

胃カメラ初体験

人生初の胃カメラ体験。鼻からは負担が少ないと聞いてはいたが、やはり当日は緊張した。昨日も書いた通り「知らない」ことは怖い。この病院だけでも毎日何人もやっていることなのだから大丈夫、と自分に言い聞かせる。


事前に鼻やノドに麻酔をかけられるが、それがけっこう気持ち悪い。いよいよ診察室に通される。台に横になり、先生が来るのを待つ。


ふと気が付くと、指につけられた脈拍計からモニターに数値が表示され、そこからピッ、ピッ、ピッと音が出ているのだけど、そのリズムがやけに早い。あーオレは緊張してるんだな、しかもそれがまわりの看護師さんにもバレバレなんだと、なんだかちょっと恥ずかしい気持ちになった。そこで、よし、この脈拍音を鎮めてやろうと妙なやる気が出てきた。まずは大きく深呼吸。目を閉じて子どもの無邪気な笑顔を思い浮かべる。一気にピッ・・ピッ・・がゆっくりになり、音自体も低くなった。よーしいいぞと、今度は昔の彼女との楽しかったことなんかを思い浮かべる。完全にリラックス状態。ピッピッは低速安定である。脈拍計との勝負に勝った。もう大丈夫。気づいたら先生が来ていた。診察自体は、麻酔も効いたのか、覚悟していたほど辛くはない。なんとか落ち着いた体裁を保ったまま終えることができた。


緊張をほぐすのに、まさか脈拍計の音が役に立つとは思わなかった。結果も問題なく良かったし、一度経験したので次はそれほど怖くもないだろう。決して楽しくはないからできればあまりやりたくないのは確かだけど…