にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

読書感想文「すいません、ほぼ日の経営」(川島蓉子・糸井重里 著)

ぼくは一介の平サラリーマンだ。経営者どころか管理職ですらない。はっきり言って「経営」には何の関心もない。本の分類として「経営カテゴリー」があるとしたら、おそらく一冊も読んだことはない。でも糸井さんの著作には関心がある。糸井さんが語ることばには関心がある。ゆえに「糸井さんが語る経営」と聞くと読んでみたい。数ページ立ち読みしたら、やはり面白そうだ。そして購入に至った。


いきなり話が逸れてしまうけれど、この座組みの作り方は、ぼくが関わる広告の仕事でもとても参考になると思った。商品やサービスに関して、従来の利用者像とは異なる人たちにも使ってもらうことを「間口を広げる」と言い、そのための施策を求められることも多い。この本に当てはめると、糸井さんが語ることで、これまでの「経営本」好きな人たちだけでなく、糸井さんやほぼ日のファン、クリエイティブ文脈の人たちなども手を伸ばす。まさに「間口を広げる」ことに成功している。まあ、この本自体はそんな意図で企画したものではないと思うけれど、自分が見事に動かされ手に取ったことで、内容だけでなく「動機のつくり方」としても学びがあると思った次第。


で内容であるけれども、予想どおり、読んでいて気持ちがいい本だった。

糸井さんと川島さんのやり取りは、ことばの一つひとつが選ばれ、ていねいに磨き抜かれているから、「咀嚼」する必要がなくダイレクトにこころに収まり、養分として積み重なっていく感じがする。読書というよりも好きな音楽を聴いている時間のようだ。ほぼ日に「ごくごくのむ古典」という講座があるけれど、まさに「ごくごく飲む」ように読み進めていくことができる。


安定してクリエイティブな集団であるために、そしてほぼ日を「糸井さんがいなくてもいい会社」にするために、心がけ、日々社員に働きかけていること。その思考や取組のひとつひとつがまさに「クリエイティブ」であり、糸井さんだからこそ成し遂げられた偉業のように思えた。


個人として素晴らしい作品を残すクリエイターはそれなりに多く存在しているけれど、自身の「クリエイティビティ」をひもとき、知として一般化し、安定して発揮できる集団を創りあげた人は唯一無二ではないだろうか。


ぼくみたいな平凡な人間でも、自分なりに、仕事をおもしろくしていこうと勇気を与えてくれると同時に、糸井重里というクリエイターのあらたな凄みと深みを感じる一冊だった。

またやってしまった。。

同僚とランチに行ったら、そいつが、ある別の同僚に対するグチを言い始めた。

わかる。わかるぞ~。オレもその人には最近イライラさせられていたから。そうそう、人にまかせっきりで、仕事への責任感が感じられないよね。そのくせ周囲には「自分がやってる仕事」アピール。ほんと参っちゃうよな。なんて内心で激しくうなずきながら、でも、できるだけ陰で人を悪く言わない修練を自分に課しているので「まあ、そうだよね~」くらいで堪えていた。しかし、そのうち「言いたい欲望」に屈してしまった。相手のグチが一段落したところで、自分の体験談を披露してしまった。「あ~あ、言っちゃった」という後悔も抱えながら。言ったって後に残るのは、スッキリしないむなしさだけだ。聞いている相手だって、自分が発散したいだけで、他人の話を特に聞きたいわけじゃない。分かってるのに言ってしまった。そして、修行の足りない自分にがっかりしながらこの文章を書いている。


結局のところ、人の悪口を言わないとか、言い訳しないとか、人のせいにしないとか、そういうのは「世のため人のため」ではなく、ぜんぶ「自分のため」なんだ。口にしたところで、気持ちは晴れないし、人からの信頼は失うし、いいことは何もない。覚えておこうね、自分。

メルカリその後

iPhoneを出品した初体験から8か月。徐々にメルカリライフにはまってきた感じがする。

 

テントやスキーバッグ、単行本など6品を売却。中には購入した金額より高く売れたものもある。とはいえあくまでも不用品を処分しているだけなので、単価は低く、すごく「儲かった」というわけではない。リサイクルショップにもっていくよりも良かったという程度で、やりとりや梱包・発送の手間を考えると、金銭も含め物理的な「メリット」はそれほど大きくはなく、それだけで続けられるモチベーションとはならない。

ではなんでやっているかといえば「楽しいから」。たとえば単行本でいえば、ブックオフで売るより数百円得しただけだろう。でも写真の撮り方やタイトル・値付けまで、自分の頭を使って出品し、その結果として数百円の「成果」が生まれる。その一連の体験が、思っていた以上に快感だし楽しいのである。

ふだん会社のお金でビジネスをし、毎月定額の給料をもらっているサラリーマンのぼくにとって、自分事としてリアルに「商売」の面白さを教えてくれる存在がメルカリである。

 

スマートフォンにあらわれる、商品売却の通知。あの瞬間のときめきを求めて、今日も「商売のタネ」を探している自分がいる。

弱い人間の強み

NHKの「ダーウィンが来た!」が好きで子どもと一緒によく見ている。

今週と先週はライオンやヒョウなど「ビッグキャット」と呼ばれるネコ科動物たちの特集で、食物連鎖の頂点に君臨する彼らの能力に驚きっぱなしだった。


中でもユキヒョウの狩りのシーンがすごかった。急斜面を猛スピードで走りながら断崖に追い詰め、スピードをゆるめた獲物に躊躇なく飛びかかり数十メートル下の谷底まで真っ逆さま。えっと目を疑う光景だ。しかし地面に叩きつけられた後も、斜面を転がりながらも離さない。それどころか徐々に態勢を整え、最後は首もとをくわえこんで仕留めた。あんな高さから飛び降りて(というか「落ちた」に近い)生きているだけでも驚愕だが、専門家によると、跳び方に迷いがないことからも、わかってやっているのではないかと言う。アンビリーバブル。


ほかにも、ジャガーが川を泳いで忍び寄り後ろからワニを捕えたり、ライオンの真夜中のチームプレーによる狩りなど、迫力シーンの連続に興奮しっぱなしの我が家であった。


そしてあらためて考えてしまった。これほどまでに高い知能と身体能力を併せ持つビッグキャットの存在がありながら、なぜ人間が地球を支配できたのだろう。学術的なことはわからないけど、少なくとも「協力」が得意だったからというのは間違いないだろう。だって今の自分を考えたら、1対1ならばビッグキャットどころか、そこらへんの野良猫にだって勝てる自信はない。

もちろん道具を使えるようになったこともあるだろうけど、それも改良されていくには、仲間同士で知恵や情報を交換しあう協力が不可欠だったと思う。


寂しくなったり、疑心暗鬼になったり、やきもちをやいたり。そんなやっかいな感情も、人が仲間なしでは生きていけない動物だからだと思うと、なんだか受け入れられる気がする。

サラリーマンとしての心得

社会人になって約20年。そのほとんどをサラリーマンとして過ごした中で、少しずつ思いを確かにしてきたことがある。


それは、職場の外で仕事や会社のグチをいつも言っているような人生は送りたくないということ。そのために心がけることが2つある。1つは、言いたくてもグッとこらえるということだ。一見、ストレスが溜まりそうに思えるが、そのときの感情にまかせて放言したあとに「つまらないグチを言ってしまった」と自己嫌悪することに比べるとだいぶマシである。

とはいえ「我慢する」というのはなかなか難しい。そこでもう1つの心がけが重要になってくる。それは「できるだけ本心にしたがう」ということ。そうすれば、そもそも発散しなければならない不満が少なくなる。上司に反論したいのに言えない、帰りたいけど誘いを断れず付き合ってしまうなど、本心を抑えて行動した結果、あとで激しく後悔する。若いころはそんなことを繰り返してきた。結果「誰それは人の話を聞けない」とか「飲み会がめんどくさくて最悪」とか、どんどん不満がたまっていく。そうなるとグチを我慢するのはかなり難しい。


本心にしたがうには「周囲の目」を気にしない勇気がいる。でも「周囲の目」は実は自分が勝手に意識している場合も多い。意見を言ったり、誘いを断ったりというのは、本人には思い切りがいるが、後になって誰も覚えていないというくらいのことだったりする。「その瞬間」さえ乗り越えることに慣れてしまえば、驚くほど楽になる。そのうち周囲からも「アイツはそういうヤツ」と見なしてもらえればさらに生きやすい世界が待っている。


でも人によっては、自分が我慢して周囲に合わせた方が楽、という人もいるだろう。もちろんそれでもいいと思う。ぼくにとっては「我慢しない方が楽」というだけの話だ。

ぼくは自分の価値観を大切にしたいという意識が強い。だからこそ、家族や友人も含め、他の人にまで価値観を押し付けてしまうことがないように気をつけたい。

森達也さんの「A3」を読みながら感じていること

森達也さんがnoteで「A3」を無料公開している。まだ上巻の途中まで読んだだけだが、なんだか心がざわざわしている。


作品の中で森さんは、麻原彰晃には「訴訟能力がなかった」可能性について、そして精神鑑定の必要性について繰り返し主張している。それがなされず公正さを欠いたまま裁判を進める司法判断について、そして「オウム憎し」の感情にまかせて、不可解な公判の進行を容認どころか望んでいるようにさえ思えるマスコミと世論に対して、疑問を唱えている。この事件を境に、日本の社会が少しずつおかしくなっていったと訴える。


※森さんはあくまでも「訴訟能力」について言っているのであり、麻原の事件発生時の責任能力に疑問を呈しているわけではない。事実を明らかにするためにも、明らかに精神的に訴訟能力を欠いている麻原をきちんと専門医が鑑定し、適切な治療を施したうえで裁判を進めるべきだったと主張している。

 

ぼくはこれまでオウム事件と一連の裁判については、まさにマスコミで流されている情報をなんとなく眺めていた程度で、ここに書かれてある「異常な」状況で裁判が進行していたとはまったく知らなかった。完全に当時の世論の一部を形成していた。今でも途中まで読んだくらいで知ったふりをするつもりはないけれど、衝撃を受けているのは確かだ。


刊行から10年以上経った今もなお、この魂のこもった力作を無料公開してまで、何が起きたかを知ってほしい、そして考えてほしいと願う森さんの気持ちを思うと、無料で読んでいることがだんだんと後ろめたくなってくる。でも思うだけでまだ購入には至っていない自分のことが情けなくなる。そんな気持ちを繰り返しながら読み進めている。


ところで、ここに書かれている「世論」への違和感について、つい最近同じような感覚をもった気がした。そうそう、ゴーンさんの事件だ。事件といってもまだ容疑段階、しかも本人は全面的に無罪を主張している現状では、「事件」ですらない可能性もある。しかし、である。少なくともテレビや新聞から流れてくる情報を読む限りは、もうゴーンさんは稀代の悪者、カネの亡者として扱われている。


仮に容疑が事実であったとしても、直接の被害者がいるわけでも、政治家が絡む汚職事件でもない。それでこの検察の動きは、法律や政治に詳しくないぼくでも不自然さを感じる。しかし日本のマスコミはそこに疑問を呈する気配がない。完全に検察に「乗っかって」いる。そして世論も「ゴーン憎し」で出来上がっているように感じる。会社で隣の人に「ゴーンさんが無罪を主張しているみたいだけど、面白くなってきたね」と話しかけると、彼は「4回も逮捕されといて、終わってますよね~」と言った。


ぼくだってマスコミから出てくる情報しか知らないし、本当はすべての容疑がクロなのかもしれない。でもここで言いたいのは、これから明らかになる事実がどうであれ、何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される、という「推定無罪」の原則が、おおっぴらに、あまりにも堂々と蔑ろにされすぎているのではないか、という疑問である。そこに異を唱えるメディアがあまりにも少ないことへの違和感だ。


そして森さんが「オウム事件以降、日本社会が変わっていった」と書いていたことを思い出し、ちょっと暗い気持ちで納得してしまう。

大人になったら見えるもの

洗面所で顔を洗っていたとき。トイレ後の手洗いにきた次男が急に「ちょっと持ち上げてみて~」と頼んできた。脇を抱えてあげると「へえー洗面所の上の棚はこんな風になってたんだ」と言った。そうかそうかと今度は肩車をした。「わあーこんなところまで見える」と、鏡ごしに見えた顔は目がとてもきらきらしていた。


ぼくも子ども時代、父親に抱っこされると、当時「水屋」と呼ばれていた食器棚の上の方まで見えることに「大人はこんな景色を見てるんだな~」と羨ましくなったことがある。


また逆に、子どもたちがまだよちよち歩きで手をつないで歩いていたとき、道端の虫やちょっと珍しい色の石をすぐに発見するのを見て、彼らならではの視線では、世界はまた違って見えるんだろうなと気づかされたことがある。


大人になったからといって視野が広がるとは限らない。せっかく背が伸びたのだから、せめてスマホからは極力目を離して、好奇心をもってキョロキョロしていたいと思う。