にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

脳が見ている

なにかを見たり読んだりというのは、「目」で見ているようでいて、実際は脳が見ているらしい。つまり目のレンズに映る「ありのまま」ではなく、脳が「見たい」と思う通りに情報を解釈しているということだ。だまし絵で勘違いするなんていうのは、「脳が見ている」ことを示す典型例でもある。

専門的なことはわからないけど、たぶん耳も同じようなことだろう。電車内でイヤフォンを通して音楽を聴いているとき、知らない曲だと全然聞こえない小さな音量でも、知っている曲であれば脳内で補完されてきちんと聞こえることがある。脳が「聞きたい」ように聞いているのだと思う。


ツイッターやWEBサイトで流れてくるニュースでは連日のように誰かが「炎上」している。全部が全部を追っているわけではないけど、詳しく見てみると、その発言自体はそれほど不適当と思えないものも多い。でも誰かが「けしからん」と言い出し、その流れでリツイートされたりニュースとして報道されると、驚くほど多くの人が「けしからん」と言い始める。中には、どう読んだらそんな解釈になるのか首をかしげるものもあるけれど、おそらく脳が「けしからんもの」という風に「読みたい」から、そのように読めてしまうのだろう。最近の政治家や俳優の炎上騒ぎなどを見ても、そう感じるものが多い。


また、先日こんなこともあった。ぼくは西武ファンで、ほとんどの試合をネット中継で観戦している。ファンにとっては少々ストレスが溜まる敗戦があった翌日、その試合でのある解説者のコメントが炎上している、という記事をみた。西武の打者が三振した際に、相手チームの応援実況の中で「いい気味だ」と言ったとのこと。それが西武ファンの間で大量にリツイートされ非難が集まり、彼のWikipediaまで「解説者失格」などと改竄される騒ぎになっていた。ぼくはその試合もそのシーンも中継で見ていたのだけど、まったく覚えがなかった。試合全体を通して、西武劣性の展開にイライラこそすれ、当の解説者の発言に不快な印象はまるでなく、むしろ好感をもったほどだった。相手チームのコーチ経験もある彼は、関わりの深い選手を応援するコメントはするが、西武の選手に対しても良いプレイは称えていて公平さを感じていたし、まして中傷するような発言をした記憶はまったくなかった。


ネット中継はすべての試合がアーカイブされいつでも再生できるのがいいところ。早速問題のシーンを見返してみた。

西武の攻撃。二死ながらチャンスを迎え打者は木村。相手チームの応援解説という立場の彼は、木村につながれると、次は代打で好打者のメヒアが控えている。なんとか木村で切りたい(攻撃を終わらせたい)ですね。そんな話をしている。そして見事三振に切って取った。その瞬間に「よし、いいキリだ」と言った。まあ確かに変な日本語ではある。そして西武ファンにとってはストレスマックスの場面でもある。その条件が重なり、どこかの西武ファンの脳には「いい気味だ」と聞こえたのだろう。そして同じくストレスを抱えた西武ファンの一部が、自分の耳で確認することもなく、そのツイートや記事を鵜呑みにしてリツイートし、彼を叩いた。そういうことのようだ。


ぼくも西武のことになると恥ずかしながら、我を忘れてカーッとなることがある。相手チームの応援実況のコメントにイライラさせられることもしょっちゅうだ。だから、敗戦の腹立たしさをそこにぶつけたい気持ちもよくわかる。今回のケースは「いい気味だ」があまりにもありえない表現だったから、ぼくも「待てよ?」となったけれど、もしかしたら、過去には勘違いしたまま怒っていることだってあるかもしれない。


見たり聞いたりしたことは「事実」ではない。あくまで脳が「自分が納得しやすいように」解釈した情報にすぎない。そして第三者を通して流れてきた情報は、すでに誰かの脳内を通ったバイアスがかかっている。そのことを常に意識しておきたい。何かを語るなら、一次情報を自分の目で、耳で確認してからにしたい。せめて「自分の脳」で解釈する習慣をつけておきたい。

47歳定年に向けて

昨日の続きのような話。


企業は47歳で社員を定年とすべき、という主旨の記事を読んだ。現在のように、60歳を過ぎた定年社員を再雇用し給料を負担し続ける、というのは早晩破綻する。47歳といえば、その頃はすでに出世争いの決着はついているから、必要な人材は残しそうでない人材には去ってもらう。去る方も、60歳を過ぎてからよりも47歳であればまだいろんなチャレンジができるし、そこに向けて事前にスキルアップや副業など様々な対策をとるようになるはず。そんな内容だった。


今のままでは、自分は間違いなく去る方になるだろう。そこで今日から「47歳で定年する」という前提に立って生きてみることにした。さらに、最近流行の「若返った理論」も付け加えることにする。つまり47歳の誕生日に会社から突然雇止めを食らって絶望している自分。そこから神様が5年だけ時間を巻き戻してくれて今がある、というわけだ。ものすごく貴重な5年間。といっても、何をしたらよいのかすぐにはよくわからない。とりあえず「5年後にどうありたいか」について頭の中を整理することにする。


まずは「お金」。

最低限、いまくらいの収入はほしい。でも仕事を選ばず、お金を稼ぐだけでいいのか。アルバイトや肉体労働などいくつかの仕事を掛け持ちし、寝る間も惜しんで働けば、そのくらいの収入にはなるかもしれない。でもできればそんな生活は避けたいところだ。もう少し効率よく収入が得られて、そして自分も前向きに取り組める仕事をしていたい。


となると次の問題は仕事の「内容」となる。

効率よく収入を得るには、当然ながら自分が提供できる価値の希少度が高ければ高いほどよいのだろう。そう考えたとき、たとえば肉体労働にはぼくの優位性はカケラもない。やはりこれまでやってきた経験を少しでも活かす方向で考えた方がよさそうだ。じゃあ何をやってきたのか。世の中ではマーケとかストプラとか、最近ではコミュニケーションデザインなんてことも言われたりする。呼び方はとりあえず何でもいいけれど、クライアントの「商品やサービス」と「それを望む(はずの)人」との出会いを生む。そこに至るまでのストーリーを考え、設計する。自分ではそんなことだと思っている。まずはそこを磨こう。

5年後に次のステップを、と言っても、社内で必要とされない人材が社外で求められるはずもない。だからまずは社内で「こんな相談はアイツに」という地位を築こう。


具体的に「何をするか」。

・インプットを増やす。

これまでも多少は本を読んだりしてきたが、自分の引き出しとして定着していないものも多い。これはよかった、というものを再度読み返し、自分なりにまとめていこう。


・アウトプットする

まとめたものをWEB上に出していく。同じテーマで文章を書くにしても、自分用のメモで終わらせるより、「人の目」を意識することで表現にも「もうひと粘り」が生まれる。そうやってわずかでも自分に負荷をかけてみよう。それが積もり積もれば、5年後にちょっとした財産になっているはずだ。


せっかくもらった神様からの5年間。どんな展開が待っているにせよ、自分なりにできるだけ悔いなく過ごしてみよう。

これからのこと

いまの生活には満足している。仕事は仕事である以上「楽しい」とまでは思えないけれど、割と向いていると思うし、今日だって連休明けに憂鬱になることもないから、それなりに恵まれているのだろう。給料だって、もちろん上を見たらキリがないけれど、自分の大したことない能力からしたら十分だと思う。家族4人が暮らせて、休みの日にはキャンプや登山、ときには旅行に行ったりできる。特にこれ以上の贅沢を望むことはない。


でも、である。これから先も「満足」レベルを保てる保証はない。10年後に50代の自分が満足するには、いまよりも高い収入が必要だろう。けれど当然ながら、今の会社で自然に給料があがっていくことはない。これ以上稼ぎたいと思えば、必然的に管理職を目指すことになるのだけど、そこには心と時間の余裕を犠牲にする必要が出てくる。その結果管理職になり給料が上がったとして、自分は「満足」できるのだろうか。よくわからない。

では、ずっと気楽に今のままでいたいのかと問われると、そんなこともない気がする。給料は据え置きで、同年代や後輩が管理職になっていくなかで、今のように「満足」と思えるのか。よくわからない。


ひとつだけわかっていること。あまり先のことを不安がってもいいことはない。これまでの10年間でも、想像もつかなかったいろんなことが起きて今がある。そのときの自分が気が向いた方向に舵をとり、あとは流れに身を任せる。そんな感じでやってきたし、これからもそれでいいんじゃないかな。とりあえず今のところはそう思っている。

いいことば

「成功は約束されてなくても、成長は約束されている」

これは今年からマリナーズでプレーする菊池雄星投手の文章にあったことば。さすがにいいことを言う。シンプルで、芯をとらえていると思う。


「成功」というのは、プロ野球選手のメジャー挑戦に際して必ずといっていいほどセットで語られるワードだ。マスコミ、そしてファン。「現場」から離れている人になればなるほど、○○は成功した、××は成功できなかった、とわかったように語る人が多いように思う。


でも菊池投手にとって「成功」よりも大切なのは「成長」。常に一歩でも先をめざし、自分に負荷をかけ続けるという彼は、異国でレベルの高いリーグに挑戦することで、野球はもちろん、人として成長できると確信している。挑戦する理由があるとしたら、それがすべてなのだと思う。


そもそも「成功」にだって客観的な物差しは存在しない。何を求めて挑戦したのか。結果として何を得たのか。そんなことは本人にしかわからないことだ。たとえ成績が残せなかったとしても、人生経験としてはかけがえのない収穫を得ることもあるだろう。成功かどうかは他人が判断することではない。


と、ここまで書いて、オレはなんて当たり前のことを言ってるのだろうと思った。たぶん世の中のほとんどの人はそんなこと百も承知のはずだ。何かしら自分にとっての「挑戦」をしたことのある人であれば、その結果以上に、自身が「成長できること」こそが挑戦する意義であることを理解している。他人の成功うんぬんをあげつらってしまうのは、挑戦できない人間であることを表明している行為に等しい。

読書感想文「すいません、ほぼ日の経営」(川島蓉子・糸井重里 著)

ぼくは一介の平サラリーマンだ。経営者どころか管理職ですらない。はっきり言って「経営」には何の関心もない。本の分類として「経営カテゴリー」があるとしたら、おそらく一冊も読んだことはない。でも糸井さんの著作には関心がある。糸井さんが語ることばには関心がある。ゆえに「糸井さんが語る経営」と聞くと読んでみたい。数ページ立ち読みしたら、やはり面白そうだ。そして購入に至った。


いきなり話が逸れてしまうけれど、この座組みの作り方は、ぼくが関わる広告の仕事でもとても参考になると思った。商品やサービスに関して、従来の利用者像とは異なる人たちにも使ってもらうことを「間口を広げる」と言い、そのための施策を求められることも多い。この本に当てはめると、糸井さんが語ることで、これまでの「経営本」好きな人たちだけでなく、糸井さんやほぼ日のファン、クリエイティブ文脈の人たちなども手を伸ばす。まさに「間口を広げる」ことに成功している。まあ、この本自体はそんな意図で企画したものではないと思うけれど、自分が見事に動かされ手に取ったことで、内容だけでなく「動機のつくり方」としても学びがあると思った次第。


で内容であるけれども、予想どおり、読んでいて気持ちがいい本だった。

糸井さんと川島さんのやり取りは、ことばの一つひとつが選ばれ、ていねいに磨き抜かれているから、「咀嚼」する必要がなくダイレクトにこころに収まり、養分として積み重なっていく感じがする。読書というよりも好きな音楽を聴いている時間のようだ。ほぼ日に「ごくごくのむ古典」という講座があるけれど、まさに「ごくごく飲む」ように読み進めていくことができる。


安定してクリエイティブな集団であるために、そしてほぼ日を「糸井さんがいなくてもいい会社」にするために、心がけ、日々社員に働きかけていること。その思考や取組のひとつひとつがまさに「クリエイティブ」であり、糸井さんだからこそ成し遂げられた偉業のように思えた。


個人として素晴らしい作品を残すクリエイターはそれなりに多く存在しているけれど、自身の「クリエイティビティ」をひもとき、知として一般化し、安定して発揮できる集団を創りあげた人は唯一無二ではないだろうか。


ぼくみたいな平凡な人間でも、自分なりに、仕事をおもしろくしていこうと勇気を与えてくれると同時に、糸井重里というクリエイターのあらたな凄みと深みを感じる一冊だった。

またやってしまった。。

同僚とランチに行ったら、そいつが、ある別の同僚に対するグチを言い始めた。

わかる。わかるぞ~。オレもその人には最近イライラさせられていたから。そうそう、人にまかせっきりで、仕事への責任感が感じられないよね。そのくせ周囲には「自分がやってる仕事」アピール。ほんと参っちゃうよな。なんて内心で激しくうなずきながら、でも、できるだけ陰で人を悪く言わない修練を自分に課しているので「まあ、そうだよね~」くらいで堪えていた。しかし、そのうち「言いたい欲望」に屈してしまった。相手のグチが一段落したところで、自分の体験談を披露してしまった。「あ~あ、言っちゃった」という後悔も抱えながら。言ったって後に残るのは、スッキリしないむなしさだけだ。聞いている相手だって、自分が発散したいだけで、他人の話を特に聞きたいわけじゃない。分かってるのに言ってしまった。そして、修行の足りない自分にがっかりしながらこの文章を書いている。


結局のところ、人の悪口を言わないとか、言い訳しないとか、人のせいにしないとか、そういうのは「世のため人のため」ではなく、ぜんぶ「自分のため」なんだ。口にしたところで、気持ちは晴れないし、人からの信頼は失うし、いいことは何もない。覚えておこうね、自分。

メルカリその後

iPhoneを出品した初体験から8か月。徐々にメルカリライフにはまってきた感じがする。

 

テントやスキーバッグ、単行本など6品を売却。中には購入した金額より高く売れたものもある。とはいえあくまでも不用品を処分しているだけなので、単価は低く、すごく「儲かった」というわけではない。リサイクルショップにもっていくよりも良かったという程度で、やりとりや梱包・発送の手間を考えると、金銭も含め物理的な「メリット」はそれほど大きくはなく、それだけで続けられるモチベーションとはならない。

ではなんでやっているかといえば「楽しいから」。たとえば単行本でいえば、ブックオフで売るより数百円得しただけだろう。でも写真の撮り方やタイトル・値付けまで、自分の頭を使って出品し、その結果として数百円の「成果」が生まれる。その一連の体験が、思っていた以上に快感だし楽しいのである。

ふだん会社のお金でビジネスをし、毎月定額の給料をもらっているサラリーマンのぼくにとって、自分事としてリアルに「商売」の面白さを教えてくれる存在がメルカリである。

 

スマートフォンにあらわれる、商品売却の通知。あの瞬間のときめきを求めて、今日も「商売のタネ」を探している自分がいる。