こんにちは
うちの8歳と5歳の息子は、二人ともゲームが大好き。奥さんが1週間で5時間まで、と決めているので、いつもゲーム時間が回復する水曜日を楽しみにしています。
ぼく自身も、5時間制には賛成です。
でもなぜ「ゲームのやり過ぎ」がよくないと思うのか、自分の中で明確な理屈がなく、ちょっとモヤモヤしていました。
ゲームだけではなく、テレビもそうです。あまり長時間見続けていると止めたくなる。でも一方で、お絵かきに熱中したり、本やマンガを読む時間に制限をつけようという気にはならない。その差はなんだろう、と。
また子どもたちは長時間のドライブを嫌がります。退屈だからです。なのですが、ぼくはそこでDVDを見せたりゲームをさせたり、という気にあまりなれません。それもなぜなのか。単に自分の子ども時代がそうだったから、というだけではないと思ってはいるものの、語るべき言葉が思いつかない状態でした。
ちょっとわかった気がしたのは、糸井重里さんの5/7付「今日のダーリン」を読んだとき。
~以下抜粋~
ポイントは、なにかをしている「間」の時間です。
大人って、いろんなことをしているようですが、
「間」の時間というものが山ほどあるんですよね。
旅をしていれば、よくわかると思います。
実は、なにをしている時間よりも、
移動している時間のほうが多かったりします。
そこが、「ひとり」であるというのが大事なんです。
その、「間」の時間と「ひとり」の組み合わせこそが、
日頃忙しくしているうちに紛失してしまったなにかです。
自分がなんとなくこだわっているのも、この「間」なんじゃないか、という気がしました。
いやもちろん、自分が糸井さんと同じレベルでものを考えているわけではありません。
ですが、車の後部座席に座って、景色を見るともなく眺めながらボーっとする時間には、いろんなことを考えるはずです。とりとめもなく。自分のアタマの中でぐるぐると。
子どものころに、たまにそんな時間があってもいいんじゃないかというのが、自分の考えていることかもしれない。そう思ったのです。
そこから「ゲームのやり過ぎ」にも少し答えが見えました。
ゲームやテレビには、自分のアタマで考える「余白」が比較的少ない。あくまでも誰かが作った枠の中で楽しむものだからです。ぼくもゲームは好きだから否定するわけではないけれど、やはり彼らには「アタマを使って考えること」をたくさん経験してほしい。そんな願いがあります。
子どもの思考を強制することはできません。でも環境は整えてあげたい。悔いなく人生を送るには「自分で考え、判断し、決断するチカラ」が欠かせないと思うから。