「光」という映画を観た。
永瀬正敏演じる中森という名のカメラマンが弱視を患い、やがて完全に視力を失っていく絶望の中で、水崎綾女演じる、映画の音声ガイドを仕事とする女性と出会い惹かれあっていく、というストーリー。
この映画を観ながらぼんやりと考えたことがある。
それは、持っていたものを「失う」ことの恐怖について。
生まれつき視力のない人がいる。
もちろん不便はあるだろうし、辛い思いをすることもあるだろう。その気持ちはぼくには分かりようがない。
でももしかしたら、人が空を飛べないように、水の中では息ができないように、様々な「元々できないこと」のひとつとして受け入れることができたら。「見えないこと」は恐怖や絶望という感情とつながることはないのかもしれない。
でも「失う」としたらどうだろう。
ぼくは視力は悪くないが、角膜がとても傷つきやすく、ちょっと何かが当たっただけで猛烈な痛みに襲われ、目を開けられなくなる。
つい先日も、座っているぼくの膝に乗ってこようとした次男の指が目に当たりダウン。そのまま一週間以上会社を休むことになってしまった。
その間はひたすら家の中で目を閉じて過ごすしかない。
平時の一週間はあっという間だが、痛みに耐えて堅く目を閉じて過ごす一週間はとんでもなく長い。そしてその間何度も「このまま治らなかったらどうしよう」という気持ちに襲われる。
野球を観ることができない。映画やドラマも楽しめない。マンガも読めない。仕事だって変えなきゃいけないだろう。そしてもう子どもの顔を見ることができない。
それは圧倒的な恐怖感だ。
視力を「もっている」から、失うことを恐れてしまう。
そしてそれは視力に限らないはずだ。
生まれながらにして授かったあらゆる身体的能力、家族や友人などの人間関係、お金もそうだろう。
その点、子どもは今の自分がすべて。比べる対象を知らない。なんて自由なんだろう。
「失う恐怖」を知ってしまう、ということが大人になるということなのかもしれない。