今朝、2年生の次男が登校準備をしているときに、ランドセルにつけているピカチュウのキーホルダーを外してほしいと言ってきた。先生に「キーホルダーはダメだよ」と言われたらしい。
ぼく「なんでダメなのか聞いた?」
次男「聞いてない」
ぼく「理由もわからないのに、お気に入りのキーホルダー外すの?先生に聞いてみたら?」
次男「うーん…聞かなくていい」
そんな情けないやり取り。横から5年生の長男も「学校がダメって決めてるんだからダメでしょ」なんて役人のような発言をする。とはいえぼくも、そのまま付けていって先生に理由聞いてこい!なんてけしかけるほど信念が強いわけでもない。仕方なく外してあげた。
うちの子どもたちは、先生や学校の言うことが絶対だ。そこに何の疑問も持たないことに寂しさや危惧を感じてしまう。少しずつでもいろんなことに「なぜ」の気持ちが芽生えるように、鬱陶しいと思われても言い続けるしかなさそうだ。
なんてエラそうに思っていたその数時間後。
ほぼ日で連載していた養老孟司×池谷裕二 両氏の対談を読んだ。
その中での「時間はなぜ前にしか進まないのか」ということをはじめ、当たり前に思っていた多くのことが、人間の“脳”がこしらえた幻想にすぎないという指摘の数々に、なんだか打ちのめされる思いがした。
もっと単純なことでいえば、学校で習う「3a-a=2a」という式。養老氏は「なぜ答えが3じゃないのか」と問う。言われてみれば確かにそうだ。学校で習ったから「そういうもんだ」と思い込んでいるだけなのだろう。世の中に、自分が疑問のカケラすらもったことがないことでも、絶対じゃないことは山のようにあるようだ。
そこではたと気づかされた。
ぼくは学校や社会のルールは絶対じゃないし、疑問をもつことが必要と考え、そんな思考になってくれない子どもたちを憂える。でもそれは、ぼくが子どもたちに比べ、単に長く生きていることで疑問をもつ必要に迫られる経験を多くしてきたからにすぎないのだ。そこに気づいていることを、エラそうに語るようなことではないし、まだ数年しか生きていない子どもたちに対して、心配するようなことでもないのだろう。
自分だってまだまだ青二才の未熟者。子どもたちに何かと説教したくなる自分が現れたときは、そのことを思い出すようにしよう。