にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

コロナと死生観と価値観と。

中川淳一郎さんのこの記事を読んだ。

 

日本人はなぜ「テレビや世間の空気が作った死生観」を真に受けるのか

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80251?page=1&imp=0

 

全体に同意できるところは多かった。新型コロナウイルスにより亡くなる高齢者と、他の原因で亡くなる人の生命の価値は同等だ。ことさら「コロナの疾患」で亡くなる人のみをクローズアップし、「高齢者を守れ」と強調する報道にはバランスの悪さを感じる。

 

それでも、ぼくはやはりコロナ感染を抑え込もうとする今の政策を基本的には支持している。

それは高齢者の生命を守るためだけではない。感染が野放図に拡大し医療がパンクしたら、他の「助かるはずだった生命」までが失われることになるからだ。そうなると、やはり経済どころではないと思う。我が家のような子どもを抱える家庭は、病院にお世話になることが多い。それがままならなくなるような社会は、それこそ未来がない。

 

とはいえ、今のような自粛生活が限界に近づいているのも確かだと思う。

こればかりはどこにも正解はなく、あるのはそれぞれの「考え方」のみ。だからお互いを攻撃的に責めるのは何の意味もない。それは論破ではなく「価値観の否定」に過ぎないのだから。

誰かを変えようとするのではなく、個々が自分の判断に責任と信念をもって行動するしかないのだと思う。

 

幸い、ここにきて感染者数は落ち着き、ワクチン接種も始まろうとしている。どんな考え方の人にとっても「めでたし」と思える日が来ることを信じたい。

 

 

イライラポイント

自分には「イライラポイント」があるように思う。基本的には、 あまり他者のやることに関心がないから、 感情の起伏は少ない方だと思う。実際に周りにも「怒らない人」 と言われることがある。でも、 周囲に気づかれているのかどうかはともかく、 無性にイラっとしてつい攻撃的な物言いをしてしまうことがある。 あらためてどんな時かと思い返してみると、 どうも相手の発言に対して「考え足らず」 と思ってしまったときではないかと思う。 たとえば打ち合わせなどで、自分の提示した資料に対して「 こうした方がいい」という意見。もちろん、 できるだけ客観的に聞き、 必要と思えば受け入れる気持ちはもっているつもりだ。でも、 あまりにも短絡的というか、 自分がすでに思考の過程で捨て去ってきた内容のことを声高に言わ れると、ついちょっとキツめに反論してしまう自分がいる。 念のために言っておくと、 これはあくまでも自分と対等または上司にあたる立場の人たちが、 さも「分かった風」に発言したことに対してであって、年下や、 自分に対して「気を遣って」接してくれる人には、 ぼくもそれなりに配慮をして会話をするようにしている。

 

とはいえ、いくらこちらが気を遣う必要のない相手に対してでも、 イラっとしてしまった後にはちょっと自己嫌悪に陥る。 彼らを論破したところで気が晴れることはない。結局、 彼らがそんな意見を口にするということは、 資料からぼくの真意が伝わっていないからであって、つまり「 ぼくの責任」なのだから。それなのにイラっとする自分は、 まだまだ修行が足りないなあと思ってしまう。

 

いつでも謙虚な気持ちを忘れずに、誰にでもにこやかに、 落ち着いて対処できる大人に早くなりたいものだ。

 

差別と報道について考えてみた

 

今回の森さんの発言・騒動をめぐってはいろいろとモヤモヤしたので、何がモヤモヤしているのか自分のアタマの中を整理してみたいと思った。

 

まず差別とは何だろう。

自分なりに定義してみると、容姿、年齢、性別、身体的特徴や能力、価値観、ライフスタイル、その他さまざま…つまり「自分と異なる」他者に対して、その「異なる」ことを理由に攻撃や侮辱をすること。という感じだろうか。

 

では差別がすべて社会問題化するかというと、必ずしもそうではないと思える。

 

たとえばネットで誰かが「高身長の人は頭が悪い」という発言をしたとしよう。差別発言には違いない。でもそれが炎上するかといえば、あまりピンとこない。当の高身長の人がそれを見ても、おそらくそれほど腹が立たないからだ。なぜなら高身長なことで良い思いをすることの方がはるかに多いから。

ある意味、その発言主よりも自分が「優位」にいるという感覚がある場合、それほど不快な思いが生まれないと想像できる。

 

では逆に「低身長の人は頭が悪い」はどうだろう。いかにもNGな感じがする。少なくともさっきの「高身長の~」よりも不快な思いをする人ははるかに多いだろう。

 

そう考えると、差別的な言動が問題視される要件としては、その言動の「主」の方が多数派や優位な立場にあること、差別を受ける側が弱い立場にあること、となるだろうか。

 

ただし「優位」や「弱い」というのは、あくまでも相対的かつ抽象的なものであり、人によって判断が異なる曖昧なものでもある。そこも注意が必要だ。

 

今回の森さんの発言に関しては、内容自体が差別的であったことは疑いなく、擁護の余地はないと思える。さらに発言の内容のひどさに加えて、森さんが元総理大臣・有力政治家であるという「強い立場」にあったことが、より大きな炎上につながった。

 

しかし報道の過熱にしたがい、どこかの時点で強者であったはずの森さんと、世の中(マスコミ)の立場が入れ替わった。その結果、いつの間にか少しずつ、マスコミの報道が年寄りや男性に対する逆差別のように見えてきた。弱者となった森さんに対する「いじめ」のように見えてきた。ぼくのモヤモヤの正体は、そういうことなんじゃないだろうか。

 

マスコミの人たちは、立場が入れ替わったことにそろそろ気づいた方がいいだろう。

 

 

「感謝する」ということについて

このまえ、母親と昔話をしていたときのことだ。

 

うちは、ぼくが6年生のときに父親の転職で引っ越したのだけど、当時はやっぱり子どものことを考えて迷ったり、夫婦喧嘩をしたりもした、と話していた。

 

ぼくとしては、結果的に引っ越しがなければ今の奥さんとは出会っていないし、今の子どもたちとの暮らしもなかったと考えると、引っ越ししてくれてよかった、みたいなことを言った。

 

これは引っ越しの話だけど、誰しも、むかし親に言われたことやされたことを、「あとになって」感謝するということがあるだろう。

 

それでふと思ったのは、「感謝する」というのは「今」が幸せだったり、満足しているからできることなんですよね。当たり前だけど。

 

親に感謝したことのある人は、その親の行為そのものに感謝すると同時に、いま自分が感謝できる状態にあることも、素晴らしいことだと自覚した方がよいなと。

 

そんなことを考えると、ぼくもいつか息子たちに感謝してもらえる日がくればいいなと願ったりする。

 

誰にも言えない鬼滅の感想をひっそりと。

 はじめにぼくの鬼滅ステータスを言っておくと、アニメは1話目を見て今ひとつ入り込めずにそれっきり。

その後さらに周囲で評判が高まる中、 妻がコミックスを借りてきたのでトライするも、5巻くらいで挫折してしまった。

つまり、はっきり言ってファンとはいえない人間だ。

 

でもって今度は映画だ。 ぼくがターゲットでないことはわかっている。

でも公開されて数日で、 早くも日本映画史に残ろうかという大ヒット。

とりあえず歴史の証人になるべく観ておこうと劇場に向かった。

 

幸いというかなんというか、 今回のストーリーはコミックスで読んでいたあたりとギリギリつながっている。

予習としてアニメの最終話を観てから臨んだ。

 

ということで、自分の備忘として感想を記しておく。

 

そもそもがこんな温度感なので、当然、 ファンの人のように感動したり、泣いたりというほどには、 のめり込むことはなかった。

 

まずは、どのあたりが自分の好みと異なるのかを整理しておく。

 

一番は「すべてを言葉で語ってしまう」ところ。

炭治郎にしても煉獄さんにしても、とにかくよくしゃべる。( 心の声も含めて)

もちろん言っている内容は共感できるし、 いいことを言っていると思う。

でもちょっと直接的すぎるというか。

作品を通して同じことを伝えるにしても、個人的にはもう少し、状況描写やふとした表情などで「 それとなく」感じさせてくれる表現が好みだ。

 

それからもうひとつ、上述の「語りすぎ」 にも通じることなのだけど、

笑わせたいところでの、思い切りデフォルメした顔や、泣かせたいところで、登場人物にわんさか涙を出させる( カラスまで)といった演出も気になった。

もちろん原作がそうなっているからなんだろうけど、

あれだけの素晴らしい映像なので、観客としては、もう少し「 雰囲気」 で笑わせたり泣かせたりしてほしかったなあと思ってしまった。

 

あとは、原作を読んでいなかったので、無限列車の鬼を倒したあと、突然「上限の鬼」 が現れたのには戸惑った。

映画の中では、何の前振りや伏線もなく登場したので「誰!?」 というクエスチョンが消えないまま煉獄さんの死闘を見守ることになってしまった。コミックスでは、 もう少し納得感ある登場だったのかが気になるところだ。

 

と、ここまでネガティブなことばかり書いてしまったが、こんなファンでもないぼくでも、 キレイで迫力ある映像とテンポのよい展開に前のめりで食い入ったし、あっという間の2時間だった。

 

あと、これは鑑賞後にいろんな感想を読む中で「なるほど」 と思ったことだけれど、

あれほどピュアでまっすぐなセリフが、 こんなに多くの人の心に刺さり支持を得ているということが、現代においては重要な現象だということ。

 

確かにここ数年は、日本でも権力をもった人が乱暴に物事を進め、 ウソや捏造に知らん顔をし、責任を下の人に押し付けるということが多発している。

 

「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です」

 

この言葉を、これだけ多くの人の心に焼き付けたという事実は、これからの日本にとって、とても意味があることかもしれない。

息抜き

久しぶりにちょっと疲れている。

キャンプ帰りや登山で疲れることはしょっちゅうだけど、仕事で疲れるのは久しぶりだ。

 

しかも、これまでは少し忙しい時期が訪れても、山を越えたら一段落して落ち着いたのが、最近はひたすら頂上のない山を登り続けている感覚。

 

このご時世、仕事がないよりはマシだし、そういう意味では贅沢な悩みかもしれないけれど、ほとんどがコンペ案件で負けたら一銭にもならない。それもまた疲労感を強くする。

 

いつもは会社を一歩出れば仕事のことなんてキレイさっぱり頭から抜けてしまうぼくだが、この数日は夢にまで見てしまう始末。

 

こりゃよくないと、今日は思い切って休みをとった。

朝からランニングでも、と思っていたのはあいにくの雨で叶わなかったが、行ってみたかったサウナへ。午前中から至福のひとときを過ごした。帰ってからは誰もいないリビングでゲーム三昧。ふだんは家族が寝静まってからかすかな音を出してやっているところを、今日はステレオにつないで迫力のサウンドを満喫した。そして昼寝。サウナでの余熱をからだの芯に心地よく感じながら、深く濃密な眠り。30分ほどですっきりと目覚めた。

 

合間にちょこちょこと電話やメールに追われたし、明日は今日の分までやることが積み重なっている。それでも休んでよかった。やっぱり平日にしか味わえない開放感がある。これでしばらくまた頑張れそうだし、疲れたらまた休もう。

押しつけない

会社帰りにたまたま見た駅ポスター広告。

車のナンバープレートが「日本」になっているビジュアルとともに「心には日本ナンバーを」というコピーが書かれていた。

 

ボディコピーを読むと、この新型コロナの流行にともなう、県外ナンバーの車を差別するような風潮に物申す、という意図のようだった。心には日本ナンバーを掲げてワンチームで乗り切ろう、と訴えていた。

 

正直に言って、個人的になんとなく好きになれないタイプの広告だと思った。じゃあなぜ好きになれないのか、ちょっと考えてみた。

 

ひとつは「日本」という帰属意識を押し付けられていること。人の「心の中」のことまで指図するような上から目線の物言いが、やや鼻につくのは否めない。ラグビー日本代表を応援したのは、彼らの努力と命懸けの戦いに感動したからであって、広告に押し付けられたからではない。

 

そしてもうひとつ、「正しいこと」を「正しい顔」で言い放っていること。コミュニケーションのあり方として、「正しい」ことを言うには、少しの「ツッコミどころ」とか「隙」が必要なんだと思う。同じことを主張するのでも、もう少しユーモアのある表現だったら、もっと共感されるものになる気がした。

 

最後に、これだけ書いておきながら、結局あれが何の広告だったのか、広告主はどこなのか、さっぱりわからなかった。これはけっこう致命的だけど、メッセージ型の広告にはありがちだ。同業者として気をつけよう。