にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

暴力教師の思い出

ぼくが小学校4年生になるとき、F先生はやってきた。もう30年くらい前の話だ。

隣のクラスが3年生のころから学級崩壊状態になり、若い女性の担任が休職する事態になった。そこで新学期から赴任してきたのがF先生だ。そのまま持ち上がりの隣のクラスの担任になった彼は児童の間でほどなく評判になった。恐ろしい「暴力教師」として。殴る蹴るは当たり前。そのクラスがあっという間に鎮静化したのは言うまでもない。ぼくは直接関わりがなかったけれど、サッカー部の顧問でもあった彼が、泣きわめく部員の首根っこをつかんで体育倉庫に引きずっていく光景を目撃して戦慄した記憶がある。


少し話が逸れるが、同じ学年には有名な問題児がいた。M君としておこう。M君はケンカが強く暴れん坊、加えてお調子者ときている。3年生の頃に隣のクラスが崩壊したのは、彼がやりたい放題になっていたことが大きい。そんなM君さえもがF先生により制圧されたのだ。


やがて4年生が終わりクラス替えが行われた。なんとぼくはF先生の学級となってしまった。あのときの絶望と恐怖は忘れられない。同じクラスになった友達と「この世の終わりだ」と話していた。


F先生のもと、M君とも同じクラスになり5年生の新学期が始まった。これからピリピリと緊張した毎日を送ることになる。小学校生活ではじめて学校に行くのが憂鬱に感じた。


いざはじまってみると、ちょっとした忘れ物でも強烈なゲンコツがくる。ひどいのになると蹴りを食らって倒れこむ子もいる。確かに「暴力教師」なのは間違いない。でも普段の教室の雰囲気はちょっとイメージが違っていた。なんだか明るいのだ。前年からの持ち上がりの子たちは先生のことをからかったりするくらいで、笑いが絶えない。暴れん坊M君も、たまに手ひどいお仕置きをうけて泣いたりもするが、F先生にめちゃくちゃ懐いている。


ぼくもだんだんと先生のことがわかってきた。怒ると尋常じゃなく怖い。手も足もでる。でもそれ以上に愛情をかけてくれていることが伝わってくるのだ。だからあれほど暴力をふるうにも関わらず、児童から、そして親からも信頼がとても厚い人だった。


ちょっとM君の話に戻ろう。ぼくの母親から聞いたところによると、彼は父子家庭だった。そしてお父さんはスナックをやっていた。夜が遅いため朝は起きられず、M君もだんだんと登校時間が適当になり、クラスの中でも荒れていったようだ。そこに赴任してきたF先生は、M君を徹底的に躾ける一方で、毎朝彼の自宅まで迎えに行き、一緒に登校するようになった。


また、H君という根っからの泣き虫の子がいた。そんな彼も5年生からF先生のクラスになり、どうなることかと思っていたが、案の定、少し怒られただけで泣き通しだ。すると先生はまわりの子に「バケツもってこい!」と怒鳴る。H君の顔の下にバケツを置き「このくらいで泣く奴にはバケツでもないと周りがびしょ濡れになる」と言う。泣き虫の子だから優しく接するなんて気遣いはまるでない人なのだ。

そんなある日、ぼくと、ぼくの親友だった子が2人先生に呼ばれた。「Hはお母さんが昼間働いていて、遊び相手もおらず家に帰ったらずっと一人でゲームばかりしてるみたいだ。だからお前たちたまに遊びに行ってやってくれ」と頼まれた。あんなに厳しく接してるけど、ちゃんと彼のことを考えてるんだなと子ども心に感心した。そしてぼく達のことを信頼して頼んでくれてることが伝わってきて嬉しくなった。以来たまに友達と連れ立ってH君の家に行き、一緒にゲームをしたり近所の公園で遊んだ。


そのまま6年生にもちあがり1学期が終わるとき、ぼくは転校することになった。先生はとても寂しがってくれた。お別れ会の日、まだ世の中にはほとんど普及していなかったどデカいビデオカメラをどこかの学校から借りてきて、撮影してくれた。後日送られてきたVHSテープには、お別れ会の様子のほかに、生徒一人ひとりと先生からのメッセージ、そして学校内をくまなく自分の解説付きで撮影した映像が入っていた。これは今でもぼくの宝物だ。


F先生のもとではイジメなんてあり得なかった。もしそんなことがバレたら、本気で「殺される」と思っていた。そして同時に、先生を悲しませるようなことはしたくなかった。


暴力自体を肯定するつもりはない。だけど暴力をふるうから「悪い指導者」と決めつけるのは、ちょっと違うということをぼくは知っている。