にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

日本人とは

ぼくは日本という国が好きだ。食べ物や環境面で暮らしやすいというのが大きな理由だけど、もちろん生まれ育った国という愛着もあるし、オリンピックなんかでは自然と日本代表選手を応援している。


では「愛国者」かと問われれば考えてしまう。日本が「好き」という気持ちは、いま住んでいる町内が「好き」というのと変わらない。以前に1年程度住んでいたオーストラリアも好きだし、オーストラリアの選手を自然に応援することだってある。

つまり「愛」と呼べるほどの気持ちかということに自信がない。あの子かわいいし性格もいいから一緒にいて楽しいけど、「愛してる?」と聞かれたらちょっと重いな、みたいな。ぶっちゃけそこまで身も心も捧げますというほどの覚悟をもって付き合ってるわけではありません…みたいな。


まあそれはともかく、「愛国者」ということを考えたときの「日本」とは何を指すのか、考えてみるとよくわからない。「日本人であることを誇りに思う」という人がいるけれど、そのときの「日本人」とは何なのか。


四方を海に囲まれた“領土”としての日本なのか、それとも“国家”として、日本国籍が拠るところの日本なのか。たとえば今後日本がどこかの国を占領したとして、そこで生まれた子どもたちも当然「日本人」となる。そんな極端な話でなくても、ぼくの祖父母は沖縄の人だが、沖縄が今でいう「日本」の一部となったのは割と最近の話だ。ぼくも祖父母も日本人だけど、そのさらに祖父母となると琉球王国の人だ。彼らは日本人なのか?

愛する対象、誇りに思う対象としての「日本」や「日本人」を考え出すと、その輪郭は意外に曖昧で流動的である。もちろんそれは日本に限った話ではないのだけど。


何が言いたいかといえば、「愛国者」を名乗る人や「日本人としての誇り」云々を語る人には、個人的にあまり共感できない。曖昧なものを無理やり定義づけして囲ってしまう「閉じた」思考だと思うから。北海道の人が東京の人に対して同じアイデンティティと親しみを感じるのと同じように、韓国や中国をはじめ、世界中の人と自然に交わって暮らせる社会になってほしいと思う。国境や国籍という「制度」がなくなることはないだろうけど、インターネットによって世界中の誰とでも交流できる時代はすでに来ている。翻訳の技術だってすごい進歩だ。今後も否応なく世界は「開いて」いくのだろう。素敵な時代が待っていると信じたい。