にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

いい時間

今日、糸井重里さんが「幸福というのは『いい時間』を過ごすことではないか」と書いていた。


ほんとにそうだ。ぼくはこれまでの人生、また現在も「幸福だ」と言えるけれど、それはよくないことよりも「いい時間」の思い出の方が多いからだろう。特に子どもというのは

圧倒的に多くの「いい時間」をくれる。もちろんそればかりではないけど、一つひとつの「いい時間」のインパクトがとても大きい。

おそらくペットにも同じことがいえるのではないだろうか。


話が変わって、ぼくは広告に関わる仕事をしているが、その商品をどう見せるかを思案するときに、よく「価値」という言葉が使われる。単に「速い」とか「大きい」という事実だけではなく、それが利用者にとってどんな「幸せ」をもたらすのか、という考え方だ。これも言い換えれば、その商品を使うことで「いい時間」が生まれるかどうか、ということになる。


自分自身の生活は幸福といえるけれど、仕事でもたくさん「いい時間」を生む商品やサービスに携わっていきたい。それがまた自分にとって「いい時間」となるはずだ。

進歩?

このところ仕事の忙しさにかまけてロクにブログを書けていない。

 

なんだけど、今日たまたま会社の冊子に書いた原稿の校正があがってきて、おやと思った。

 

もう書いたことすら忘れていた他愛もない短文なんだけど、以前の自分よりも簡潔で伝わりやすい文章が書けているように感じた。

 

こんな自分しか読まない適当なブログでも、長いことやっていると少しずつ進歩してるのかなと思えた瞬間だった。

 

 

 

 

無茶ぶりダメ!ゼッタイ!!

久しぶりに受けた無茶ぶり。言うならもう少し早く言ってよ…とグチも言いたくなるが、昨日「怒らない」と書いた手前、というわけではないが、あまり敵にまわしたくない相手という打算もはたらき、シブシブ受け入れることにした。

どうせ断る選択肢がないなら、いつまでも腹を立てるのではなく、さすがと言わせるいいものを仕上げてやろう。


でも自分は、こんな仕事の振り方をしないように肝に銘じることも忘れない。

怒らない人

誰あろうぼくのことである。

よく気が長いとか、怒るところが想像できないと言われる。

確かに、少なくとも他人に対して激高した記憶はあまりない。


自分の分析では、心の沸点に到達するまでに2つの大きなハードルがある。

まず一つ目は「他人を怒れるほど大した人間じゃないという感覚」。これは謙遜でも卑屈になっているわけでもなく、本当に自分はいい加減な人間で、仕事でもうっかりミスは日常茶飯事である。だから誰かの不手際に巻き込まれたとして、それで困ることはあるけれど、怒る気にはなれないということが多い。相手の立場に立つと「まあそういうことあるよね…」という気分になってしまうのだ。


もう一つは、いい加減な性格と密接に結びついていることだけど、世の中のたいていのことは、心の奥底ではどっちでもいいというか、もっとはっきり言うと「どうでもいい」と思っている。(どうでもよくないのは、子どもに関することと西武の勝敗くらいである。この2つに関しては怒る)


どうしてもこうしたい、とか、絶対にこれを成し遂げたい、というような執念や情熱があまり備わっていないのだ。だから、自分を上回る熱量をもっている人と意見がぶつかったら妥協することも多い。だってぼくはどっちでもいいから。そのこだわりが少ないので、うまくいかないことがあっても、さほど腹が立たないということになる。


というわけで「怒らない人」というのは、わりとポジティブな褒め言葉として言ってもらうことも多いのだけど、ぼく自身では、まあ悪いことではないかもしれないが、決して自慢できることでもないような気がしている。いまさら変えることのできない性格なので、淡々と受け入れている、という感覚である。

もやもやっと感じたことへの自分なりの整理

仕事柄、たまに企業の理念・ビジョンというものに触れる機会がある。時にはその策定のお手伝いをすることもある。すぐれた理念というのは、一つ一つの文章は、どこの企業でも誰にとっても当然に当てはまるものでありながら、全体を通してみたら、まぎれもなくその会社の思想・信条がくっきりと浮かび上がるようになっている。


したがってどんな理念でも、それを構成する個別の文章において、しごくまっとうな「普遍的な価値観」が示されているのはある意味当然のことだ。それがたとえ「全体」としては否定されるべき思想・信条についても、同じことがいえる。だから個別の文言に「普遍性」があったとしても、それが理由で「全体」が肯定されることはありえない。


過去に否定されたある条文について、今さら教育されるまでもない、社会に浸透している価値観が示されている個別の文言を持ち出して、その普遍性を主張するというのは、その裏に「全体」を肯定したいという思惑があるととらえられても仕方がないだろう。そして、きちんとそこを注意深く指摘し、あらためて否定しつづけていかなければいけないと思う。

わんこはなぜ愛おしいのか

Twitterにあまた流れてくる飼い犬や飼い猫の写真。(そもそも自分が好き好んでそういうアカウントをフォローしまくっている)。なぜこんなにもほんわかして気持ちが安らぐのか。胸の奥がぎゅっとなって、心の奥底から「かわいいな~」と思えるのか。あるワンコがぐっすり眠っている写真を見ていてふと思った。この「無防備さ」にやられるのだ。犬や猫に限らず、自分の子どもに対しても、一番癒されるのは「寝顔」だったりする。なんの屈託もなくくつろぐその姿は、自分に対して1000%全幅の信頼を置いて安心している証でもある。そして「自分が守ってやらなければ」と思わせるか弱さを兼ね備えている。そこに愛おしさを感じるのではないか。もしかしたら人間は、信頼してくれる人を愛するようにできているのかもしれない。

苦手な人

苦手な人というのがいる。「嫌いな人」ではない。すごいなと尊敬できる部分もあったり、むしろいい人だと思う場合もある。


でも面と向かうと、どういう訳か少し神経が張り、会話を早く切り上げたくなってしまう。だから会話というよりは、ほとんど一方的に相手の言い分を聞いておしまいである。たぶん相手は「なんだコイツ」と思っているだろう。そう想像すると、ますます次に会った時も構えてしまうという悪循環。


いったいこれはどういう現象なんだろうか。

なんてさも難しいことのように書いてみたけれど、つまるところぼくはその人のことを「恐れている」だけなんだろう。どこか地雷を踏むとキレそうで怖い、そんな気配を本能が感じ取っていると思われる。


だいたい誰にでも思ったことは言うようにして生きてきたけれど、ごくまれにそんな「苦手」に出会うことがある。その人に会うたび、身近な上司や同僚でなくてよかったとつくづくホッとするのである。