にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

20代は削ぎ落としのフェーズ

Xで見かけたツイートの内容にとても共感したので、ちょっと長いが備忘として以下に貼っておく。
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1. 成功の『トラップ』
20代前半での早期達成は、自分が本当に望んでいない道や他者の期待に対して、人生を固定化させてしまう罠として機能します。一度このステータスゲームに組み込まれると、そこから抜け出すための摩擦コストが増大し、真の自己実現が不可能になります。

2. 探索の『フェーズ』
20代という期間は、一直線に成果を出すための実行フェーズではなく、意図的に失敗をして軌道修正を繰り返す「探索フェーズ」です。この時期に無数の失敗というデータを蓄積し、長期的な明確さを構築することこそが、人生を豊かにする最も近道です。

3. 自己の『完全な削ぎ落とし』
20代半ばにおける最大の目的は「自分が何者であるか」を見つけることではなく、「自分が何者ではないか」を純粋に削ぎ落とすプロセスにあります。不適合な要素を排除し続けることで、残された純度の高いコアだけが、未来の圧倒的なパフォーマンスの基盤となります。
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ぼくは20代で成功していないので1については判定不能だが、今をそれなりに幸せに生きている中年として、2と3にはとても納得感がある。

ぼくの20代は2回転職をし、その間にもワーホリに行ったり、戻ってきてフリーター生活があったりとフラフラしていたが、いま思えばその間に「自分が何者ではないか」がだいぶ定まっていった気がする。

たとえば、営業として売上ノルマを課されるプレッシャーにはとても弱いことがわかった。それから、よく知らない人、自分が大して関心もない相手と、仕事のために食事をしたり飲みに行ったりする時間に対して、とてもストレスを感じることがわかった。同時に、自分が苦手なこれらのことを、世の中にはそれなりに楽しんでこなせる人がいることもわかった。

その後30代以降は、いかにこれらのことから逃げて暮らせるか、を考えてきた。
結果的に3社目以降はどうにかそんな環境を死守することができている。おかげで、仕事で成功と呼べるようなことはないが、概ね満足できる人生を送ってこれている感覚はある。

若いころのぼくにとっては、いや今もそうかもしれないが、自分は何者か、何がしたいのか、を考えることは難しい。でも「何をしたくないか」を明確にできたことで、その後の満足できる生活につながっている。
ただしもちろん、若い頃にそれを分かって、わざわざ嫌なことを経験していたわけではない。結果としてそうなっていたに過ぎない。
だから自分の子どもたちに再現性があるアドバイスができるかといえば微妙なところだ。
でも、数少ない言えることがあるとすれば「入口も出口も、広くゆるく」ということだろうか。少しでも興味があればあまり先のことを考えすぎずにやってみたらいいし、向かないと思ったり、他にやりたいことが出てきたら気楽にやめたらいい。若いうちは、そんなことをどんどん繰り返していってほしいと思う。

会社というより自分と向き合う、ことについて。

井上慎平「弱さ考」という本を読んでいる。

まだ途中なので感想文というのではないけれど、読みながら頭の中で考えていることを一度整理しておきたいと思った。

 

本にもある通り、資本主義の社会、特に企業は業績にも社員にも「成長」を求める。そうでないと生き残れない仕組みになっているからだ。

もちろんぼくの会社も同じ。人事・評価制度の説明にも「成長」というワードが頻出する。

当たり前だけどそれを否定するつもりはないし、できない。自分も、その仕組みと、その中で生き抜いてきた会社のおかげで、今のところ経済的に困らない程度の生活ができている。

ただ、否定はできないのだけど、「自分には」合わないというのも感じている。特に50代も視野に入ったこの年代になってきて思うのは、会社が求める「成長」のレールにそのまま乗っかることに、どうにも違和感があるということだ。

 

その心理を自分なりに分析してみると、ぼくは成長したくないのではなく、そのベクトルや度合いを自分でコントロールしたい、ということだと思った。

会社が求める、会社に役に立つ人材になるための成長が、人生の幸福に直結する人はそれでいいが、どうやらぼくはそうではない。自分と家族にとって満足できるレベルの生活を送るために必要なお金の確保と、これからの社会でそれなりにやりがいを感じてできそうな仕事内容、その2つのバランスを考えながら、成長というより自分を「適応」させていきたいという感覚だ。そしてけっこう大事なのは、ストレスへの向き合いも自分で選択しコントロールできるような環境であること。いざというときにはそこから逃げ出すことができるような心の余裕を保っておきたい。会社のレールに完全に乗っかった状態では、それは難しいことだ。

 

これまでもこれからも、世の中がどういう変化をするかなんてまったく予測がつかない。そしてそれよりも大事なのは、時代や年齢が変化することで、自分の心理や価値観もどう変化していくかわからないということ。会社勤めを続けるとか続けないとか、どんな仕事をするかというのは本質的な問題ではない。そのときの自身の心に寄り添い、できるだけその声に素直に生きていくことを最優先に考える、それがぼくにとって大切だということを、常に意識しておきたい。

「専門家風」に気をつける

アメリカ・イスラエル・イランを中心とした戦争状態が続いている。

日本でも生活への影響が出始め、この先どうなってしまうのだろうかと、落ち着かない気持ちでテレビやネットのニュースを見る毎日だ。

そんな中で、Xのタイムラインに流れてくる「解説風」投稿を目にすることも多い。自分がフォローしている人がリポストしているのがほとんどなのだが、投稿主はいわゆる「インフルエンサー」という括りになるのだろうが、本業は投資家や医師などさまざまだったりする。そんな人たちが解説する中東情勢は、とても論理的で納得感も高い。なるほどなるほど、と読み込んでしまうわかりやすさである。

 

今日もリポストされた解説投稿をふむふむと読んでいたが、ふと「ちょ待てよ」と自分にブレーキをかけた。

よく考えると数日前にも、同じ人の「解説風投稿」を読んだ記憶がある。WBCだ。日本の敗戦の原因について語っていた。

語り口は中東情勢と同じく、明快でズバッと結論付けており読みやすい。しかし、野球に関してはこちらもオタクである。正直に言って、まったく的外れに思えるような内容だった。ふだん野球を観ていない人が、いかにも言いそうなことをもっともらしく書いていた。こういうのを、ふだん野球を観ない人たちが読んで「なるほど」と思っちゃうんだろうな、と、少し怖く感じた記憶がある。

 

そう、気を付けないと自分も同じようになるのだ。

たまたま野球については、ぼくは自分で海外の記事も読むし、選手のインタビュー動画を観たりもして、それなりに情報ソースに触れている方だと思う。そのうえで自分なりの考えをもっている。だから、他の人の投稿が、広い情報収集と深い洞察に基づいたものであるかどうか、感覚的にある程度見分けがつく。

でも、それ以外のほとんどのことについてはそうではない。

そんな詳しくないけど関心あるトピックについて、自分がフォローしている人が「リポスト」してきたものが、わかりやすく明快な解説をしていたら、深く納得し信じ込んでしまうだろう。でも、それは単なる素人の的外れな見解である可能性を忘れないようにしたい。

 

いったい何を信じればよいか、という悩みはつきまとう。

3.11のときからパンデミックを経ても、結局同じことの繰り返しではある。

自分なりに慎重に「信じるに足る人」を複数見つけて、その人を信じる、という以外にないのだろう。

ぼくの中では「信じるに足る人」の基準はいくつかある。「むやみに人を攻撃しない」「意見主張よりも情報共有が主」「自分の前言を訂正できる」といったところだろうか。

 

先が見えない中東情勢、せめて知識と情報は適度にインプットし、できるだけ冷静に見つめていきたい。

WBC

WBC日本代表は準々決勝でベネズエラに敗退した。

残念だけど、このレベルになってくるともともと実力的には紙一重だから、勝つときもあれば負けるときもある、ということに尽きる。

 

国内のリーグで見ても、あんなに強いソフトバンクでも年間の勝率が6割、最下位のロッテでも4割というくらい「勝ったり負けたり」するのが野球だ。

それが一発勝負のトーナメントである。ファンとしても、負けたら「仕方がない」と割り切るしかないだろう。

 

そんな中、近藤健介がinstagramを更新していた。

「ファンの皆さんの期待に応えられず申し訳ありませんでした」と書いていた。

 

よく言われることではあるけれど、本当にこの手の「謝罪」は必要ないと思う。

いち野球ファンの立場でこのコメントを読んだとき、まったく謝る必要はないと思ったし、もしぼくが近藤の立場だったら、不特定多数の「ファンの皆さん」に「申し訳ない」と思うだろうか?と考えると、たぶん思わない。

今大会の近藤は不調だったから、たとえば監督やチームメートに「申し訳ない」と思うのは、気持ちとしてわからないではない。

でもおそらく、顔も知らない「ファンの皆さん」に申し訳ない、なんて気持ちは生まれようがない気がする。

 

ファンとしても求めていないし、選手の立場としてもそんな気持ちがないのであれば、本当に必要のない謝罪ということになる。

もちろんこれは近藤に限ったことではない。オリンピックをはじめ「日本代表」と呼ばれる人たちが、結果を出せなかったときによく発せられる言葉だ。

当然ながら、これは選手の責任ではなく、謝罪せざるをえないような空気をつくっている「(マスコミを含めた)ファン」側の責任なのだとは思う。

 

でも選手の側も、勇気をもって「胸を張って」ほしいと思う。

どこまでいってもスポーツは「自分のため」にやるものだし、その一生懸命な姿を見てファンは勝手に一喜一憂しているだけなのだ。

負けて謝る姿を見せるのは、もうそろそろ終わりにしてほしいと願う。

 

近藤選手、日本代表のみなさん、本当にお疲れさまでした。これまで楽しませてくれてありがとう。

「ザ・スパイ -エリ・コーエン-」を観た。

Netflixドラマ「ザ・スパイ」を観終わった。最近は途中でやめてしまうシリーズものが多かった中で、久しぶりにのめり込むドラマだった。

セットや演出が素晴らしいのはもちろんだが、主演のバロン・コーエンの芝居がとにかく圧巻で、当初は全編英語のセリフに違和感を覚えたりもしたけれど、途中からはそれも忘れてしまうくらいストーリーに入り込んでいた。

このドラマで描かれるエリ・コーヘンは実在したイスラエルのスパイということで、彼のことも気になり検索してみて、驚いたことがある。

なんと没年が40歳となっている。

40歳!!

このドラマに描かれている内容が多分に装飾されていたとしても、あれほどまでに国を背負い、敵国の中枢に入り込んで関係を築き、イスラエルに数々の重要なインテリジェンスをもたらした「仕事」が、40歳までに行われていたというのが、もうすぐ50代に入ろうという僕からすると驚愕でしかない。どれだけデキる人なんだと。

 

しかし今さらながら、歴史上の人物にはとりわけ若くして大きな仕事を成し遂げている人が多いことに感心してしまう。日本でも、いわゆる幕末の志士たちは多くが20~30代だった。この早熟っぷりは何なのだろうか、現代と何が違うのかと考えざるをえない。

そこで思いつくのは、やはり「平和」だろうか。

言い換えれば「死」との距離感の違い。

コーヘン時代のイスラエルもそうだし、江戸末期の日本もそうだが、絶えず国が戦争状態にあり、おそらく今の日本とは比べ物にならないくらい「いつ死ぬかわからない」という感覚がリアルに迫っていたのだと思う。

実際の寿命がどうかはわからないが、かれらの「感覚寿命」は40~50歳くらいに設定されていたとしたら、人生におけるあらゆる行動はそこから逆算され、20~30代には「大事」を成し遂げる存在になるべく幼いころから濃密に時間を過ごす、ということなのだろうか。

 

もちろん今の平和な時代の方がありがたいわけだけど、いざとなれば若いときからこんなにも能力を発揮するほどのポテンシャルが、人間には備わっているのかもしれない。

アラフィフの今も日々をぼんやりと過ごすぼくが、夜な夜なリビングに寝転がってネトフリのドラマを観て得た気づきであった。

人間って

今の日本の空気を天気に例えたら、限りなく雨に近い曇天という感じだろうか。

アメリカとイスラエルがイランを攻撃し、戦争が始まった。

現時点で、日本にいるぼくたちが直接命の危険を感じているわけではないけれど、正しいとか正しくないとか、そんなことを考えるのさえ空虚に感じる事態で、とても漠然とした不安だけを胸にかかえてこの何日かを過ごしている。

 

それでも無理やり頭を働かせて何かを考えてみようとすると、たどりつくのは、結局人間も動物だということだ。

本質的なところでは、他の縄張りに侵略したり、守るために戦ったり、を繰り返すライオンやサルと同じことをしている。

つまりすべては、「自分が生きるため」「自分の子孫を繁栄させるため」という本能に行きつくのだと思う。

 

人間もライオンもサルも、強力な支配者のもとで、多少の不満はもちつつも従うことで守られる、という共同体で暮らしている。しかし環境の変化で「生きること」が脅かされてくると、そこの支配者は他の共同体を攻撃してでも、自分たちが生き残ろうとする。ということなのだろう。

 

「種」全体として繁栄していくために最適化していった結果が、こういう状態とも考えられる。

 

そう考えると、この地球上から戦争なんてものがなくなることはないということになる。

 

それでも、一つ一つの戦争の規模を小さく、頻度を少なくしていく努力はできるという希望はもちたい。

 

他の動物はわからないが、人間にはただ「生きたい」だけではなく「幸せに生きたい」という自然な欲求があると思う。

 

自分も含め一人でも多くの人が、ただ生き延びることではなく、幸せに生きることを追求できる世界であってほしいと願う。

 

次男の高校選びのこと

最近はすっかりブログを書かなくなってしまったが、以前に書いていた文章を読むと、やはり面白い。

多くが、このときの自分はこんなことを考えていたんだ、と新鮮な驚きを与えてくれる。

要は、全然覚えていないのである。

人は忘れる生き物とはいうが、当時はそれなりに長い文章を書くほどに脳みそを働かせて考えたはずのことがこれほど記憶にないとは、ほとんど衝撃である。

ということで、数年後の自分に向けて、たまには今の悩みを書いておこうと思う。

 

次男の高校選びについて。

彼は、いわゆる「お勉強」に関しては、小学生のころから優秀だった。

ぼく自身も多少はお勉強が得意な子どもだったが、我が子ながら全然レベルが違う感じがしていた。

スポーツに例えると、自分が県大会レベルだとしたら、次男は全国大会まで行く感じというか。

 

それは中学校に入っても変わらずで、

最近こそ多少の自習はしているようだが、基本的には家では宿題とテスト前の勉強をする程度にも関わらず、中2が終わろうというこの時期までずっと通知表はオール5だ。

先日初めて塾の冬期講習というものに行き、そこで受けた模試的なテストでは、エリア一番の進学校(M高)の合格確率は88%、それ以外の高校はすべて98%だったから、このままの調子でいけば行きたい学校にどこでも行けるということになる。

 

これを懐かしく読むころには、彼がどんな道を進んでいるかわからないが、まずは、少なくとも中学校まではすごい成績だった、ということを将来の自分のために記しておく。

 

で、本題はここからである。

 

次男本人には、まだ「この高校に行きたい」という希望がない。

同時に「少しでも上の高校に行きたい」という気持ちも特にないようだ。

 

M高に関しては、ブランド力というか、その名前の威光がとても強く、またぼくが住む郊外になると、そこに進学できるほどの成績上位者があまりいないということもあり、周囲も「M高に行けちゃうんじゃない~!?」と、どこか仰ぎ見るような言い方をしたりする。

なので目立つのをことのほか嫌う彼は、「M高志望」とは言いたくないと思っていそうなふしがある。

口にしないだけで、本心がどうなのかはわからないが。

 

親として見ていると、次男の性格的には、周囲からもM高ほどは特別視されない、二番目のK高を選ぶ可能性も高いように思える。

それがどうにも、もったいなく思えてしまうのである。

そして自分のその気持ちは、いったい何なのだろう、と思うのである。

自身がここまで生きてきて、いわゆる「学歴」などというものは、あってじゃまにはならないが、せいぜいその程度のものというのがよくわかっている。

まして高校の名前なぞは、社会に出たら何の影響もない。

そうなのだけど、やはり「手の届く一番高いところを目指してほしい」と思うこの気持ちは何なのだろうか。親の見栄?

ぼくは自身が受験生のときも、特に深く考えずに「手の届く一番高いところ」を目指す性格だったから、単に性格かもしれない、とも思う。

ただ、あえて理屈で考えると、「一番高いところ」を目指した方が、後で後悔する可能性が低いというのは言えそうだ。

 

とまあ、最近はもやもやとこんなことを考えることが多いという備忘録である。

 

もちろん、最終的には本人が納得して決める進学先ならどこでもいいと思っている。これは本心だ。

自分の知見として、人生の幸福のために大事なのは「できるだけ後悔を減らすこと」であり、後悔を減らすためには、何かを選ぶ際に「自分で決めた」と思えること、がとても重要だと知っているからである。

 

でも、こんな悩みをもつのも、長い人生において子どもが中高生という「ほんの一瞬」のことなのだから、せいぜい悶々とした気持ちを味わい尽くしたいと思う。