にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

ChatGPTについてぼんやり思ったことの備忘

 
・たとえば論文などの課題作成に使わないように、 ということだけれど、そもそもAIで代替できてしまうような課題 をやることに、どういう意味があるのだろうか。

 

・小学生の子どもが、スマホや電卓があるこの時代に、3ケタ×3 ケタのかけ算を筆算でできるようになることにはあまり意味が感じ られない。それと同じような感覚を覚える。

 

・自分でChatGPTを使って遊んでみた感じとしては、 作文の類はどれも一発では良い文章が出てこない。 当たりさわりのない、ありきたりなものになってしまう。「 集合知」なのだから当然だろう。良い回答を得るには使う側に「 問い」の能力が必要とされる印象だ。そうであるなら、 いっそのこと「ChatGPTを使った論文」 としての出来の良し悪しを判定するようにしたらよいのではないだ ろうか。

 

・それとは別の話として、AIをいくら禁止しても使う人は使うだ ろう。AIを使った論文であるかどうかの見極めに、AIを使って 判定してもらったらよいのではないだろうか。 かなりの確度で判別してくれそうな気がする。

受験

我が家の長男は4月から中学3年生。いよいよ受験生である。

といっても、彼には「少しでも上の学校を目指してがんばる」 という気持ちはないようだ。いまの自分の成績から考えて、 安全圏と思われる高校に行ければよいという感じである。

中でも、部活の仲良しグループの何人かが志望しているH高校に行 きたい気持ちがあるようだ。

 

行きたい学校があるなら、 基本的にはそれを尊重してあげたいと思う。

でも、である。

彼はこれまでそんなに勉強をしてきていない。 定期テストの直前と、あとはたまに宿題が出たらやる程度。 つまり勉強に関してあまり努力というものをしていない。

そんな感じで、安パイの学校、 中でも今の彼の成績からみるとちょっと下に位置するH高校に行き たいと言っている。

 

それがダメと言える理由はあまりない。

でも、 このまま特に努力らしい努力もせずに行ける高校でよいのだろうか 。

いわゆる「高校受験」のイメージとちょっと違うので、 なんだかモヤモヤしている次第である。

 

それは言い換えると、親として「もっと上を目指してほしい」 という願望なのかもしれない。

じゃあ、なぜ「上」を目指してほしいのか。 自分の心のうちをひも解いてみたいと思う。

 

将来から逆算すると、目指すのは「幸せに生きている」 という実感をもてる人生だ。

そこでぼくの持論なのだけど、幸せ実感を得るには「 できるだけ多くの選択肢」 をもっていることが重要なポイントだと思っている。

選択肢の中から、自分の判断で選んだ道であれば、 たとえうまくいかなくても納得できることが多い。

しかし「こうするしかなかった」という状況だと、 不満や後悔が残りやすい。そして不満や後悔は「幸せ」 の天敵なのだ。

 

そこで学校の話に戻ろう。 いまや職業選択に学歴は関係なくなりつつある。どんな高校・ 大学の出身でも自分の努力しだいで希望を叶えることは可能だろう 。ただし高学歴の人が多い世界に、 そうでない人が入っていく場合は、 様々な障害が発生することがある。逆に、 高学歴の人がそうでない世界を目指すことには、 ほとんどの場合は何の支障もない。

つまり、学歴は役に立つことがあっても邪魔になることはなく、 選択肢を多くもつためには有効なのだと思っている。

 

とはいえ、それはあくまでも「漠然と」高校・ 大学への進学を考える場合だ。

何か明確にやりたいことがあるのならば、話は違ってくる。

たとえ高卒だろうと、 学歴としてはそれほどではない大学であろうと、 自分の意志で将来のために目指したいということなら、 心から応援したいと思う。

 

長男もまだ中学生。 自分もそうだったが将来には何のイメージもないようだ。

そうであるならば、今のうちにできる努力はして、 少しでも多くの選択肢を得られる環境を手に入れてほしいと願って しまう。

 

でも結局それはぼくの価値観でしかない。 息子はまた別の人間であり、別の価値観があるはず。 それを親としてどこまで押し付けてよいものか。 いつも悩んでしまうのだ。

嫌われる勇気

ほぼ日で連載中の糸井さんと古賀さんの対談に刺激されて、自分なりの考えをまとめておきたくなったので。

 

高校生を前に「勇気」について語る内容で、随所に古賀さんの「嫌われる勇気」でも扱われたアドラーの言葉が紹介されるなどして、温かく興味深い対談だったのだけど、そこで出た高校生からの質問もまたとてもよかった。

 

その中で印象に残ったのは、この質問。

なにかにチャレンジしようとしたとき、
人に嫌われてもやるかっていわれたら、
やっぱりなかなかそうは思えず、
そういう苦痛を感じるくらいなら、
それこそなにもしないか、
媚びを売るほうがいいと思ってしまうのですが、
そういうときはどうすればいいんでしょうか。」

 

これは誰もがもつ感情だと思うし、それに対する古賀さんと糸井さんの回答もそれぞれ腑に落ちるものだった。これを読んでいて、自分だったらどう答えるだろうか、と考えたくなった。

 

ぼくがアドバイスをするならば、ふたつだろうか。

ひとつは「この人にさえわかってもらえたらいい」という存在を見つけること。友だちでも家族でも恋人でもいい。どちらにしても、生きていたらみんなに好かれることなんてありえない、という割り切りができるようになると、人生かなり楽になると思う。

 

ふたつめ、これはある程度人生経験を積むことで徐々にわかってきて、いまは確信していることだが「自分が思うほど、他人は自分に関心がない」ということ。

これを頭に入れておくだけで「嫌われる勇気」を身に着けたも同然だ。

いまの仕事をやめて新たなチャレンジをしたい、もっと些末なことだと、気が進まない飲み会を断りたい、髪型を変えてイメチェンしたい、でも他の人にどう思われるかが気になって思い切れないことは多くあるだろう。でも大丈夫。周りの人は、自分が心配している100分の1も気にしていない。確かに、余計なお世話や嫌味のひとつも言ってくるひとはいるだろう。でもその人は、数分後にはきっとあなたに言ったことなんて頭から消えている。そんなことを気にして思い悩むのは無駄でしかない。

これはぼくがいつも自分に言い聞かせてきたことだし、その考えにしたがって後悔したことは一度もない。

 

「大切な人にさえわかってもらえればいい」

「誰も自分のことはそれほど気にしていない」

この感覚を自分の中で都合よく使い分けていくことができれば、きっと満足できる人生に近づく。

これが高校生に伝えたい、自分が知っておいてよかったと思えることだ。

大事そうでない思い出

ほぼ日「今日のダーリン」に糸井さんがこんなことを書いていた。


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これまでけっこう長く生きてきて、ずうっと忘れていない 

「大事そうでない」思い出というものがあるのだ。

 じぶんの「年表」には書くわけがないようなことで、

 親しい友だちと、そういう話をしたこともない思い出。

 こういうものが、あんがいあるものだとわかったのだ。

 いわゆる「エピソード」だとか「こぼれ話」にもならない。

 どうして憶えているのか、理由もよくわからないこと。

 それでも、「大事そうでなくても大事」だったのだ。

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たとえばとして糸井さんは、中学生のとき、それまであまり好きではなかった先生に、クラス会の進行をほめられたことがうれしかったという思い出を書いていた。


たしかに、ある。

あえて「思い出」として覚えているわけではないけれど、何かのおりにふと思い出してうれしくなるようなことが。

あらためて考えてみるといろいろ思い浮かぶが、ぼくも学校つながりでひとつ。


高校生のとき、ある先生が授業にこなかったことがあった。何か緊急の用事だったのだと思うのだが、代わりの先生がくるわけでもなく、ずっと放置の状態だった。

当然クラスは徐々に騒がしくなり、途中からはほとんど休み時間のようにワイワイとなっていた。


ぼくは、たまたま仲が良い連中とは席が離れていたということもあり、特に話をするでもなく、なんとなく宿題か何かをしていた。

そのまま終業となり、帰りのホームルームで担任の先生が鬼の形相で入ってきた。

「おまえら、この前の時間でずいぶん騒がしくしてたそうじゃないか」

そしてみんなに尋ねた。「しゃべっていた奴は手を挙げろ」

当然だれも挙げるわけがない。

「じゃあ、私はしゃべっていませんという人は手を挙げろ」

黙々と自習をしていた女子数人が手を挙げた。

ぼくは、こんな風に聞かれて手を挙げる人がいるんだなあなんて、その正直さというかまじめさに感心と呆れ半分で眺めつつ、こんなどうでもいい質問を繰り返す先生にも閉口していた。

彼は、とても親身かつ熱心でぼくもかなりお世話になったのだが、あまりに口うるさいのが難点で、ぼくもしょっちゅう説教されたり口ごたえしたりしていた。


そのとき、先生がぼくの名前を呼んだ。「〇〇、おまえはしゃべっていたのか」

自分からしゃべっていないとアピールすることはないけど、しゃべっていないのに嘘をつくほどのことでもない。

「いや、べつに」


すると先生は毒気を抜かれたように脱力した顔をして言った。

「おまえ『どうでもいいから早く終わってくれ』と思ってるだろう」

ぼくも正直に答えた。

「うん、まあ…」


彼自身にも、なんだか不毛なことをやっているなあという気持ちがあったのかもしれない。

コイツしょうがないな、というような顔をして「よしわかった。もうおしまい!」

突然話は打ち切られ、めでたく下校となった。


ぼくがなぜこのことをよく覚えているかというと、先生に「人として」認めてもらえているように感じてうれしくなったからだ。

そのときは特にうれしいと明確に感じたわけではない。当時のぼくにとってはいつもの日常のワンシーンでしかなかったと思う。


でも数十年経ったいま高校時代を思い返すと、いつまでも記憶に残っていることに気づく。それがどうしてかと考えると、やはりぼくは「うれしかった」んだろうと思う。

多くのことばを交わさずとも気持ちが通じ、それを受け入れてもらえたということが。


冒頭の糸井さんの思い出にも通じることだけど、子どもにとっては、大人にほめられる、認めてもらえるというのは、人生においてとても重要なことなのかもしれない。

当の大人は覚えていないようなささいなことでも、子どもにとっては、価値観や自己肯定感を大きく育む大切な思い出となることがある、ということかもしれない。

そして多くの子どもにとって、親以外で「大人」の代表は先生だ。

うちの子どもたちの先生も、たくさんほめてくれる人だったらいいなと思う。

笑の懺悔

インターネットがうまれ、コミュニケーションが電話から一気にメール・テキスト文化に変わっていったのは20代くらいだったと思うのだけれど、その頃からぼくはなぜか「文章に(笑)を書かない」ということを、かたくなに自分に課していた。

 

(笑)はほんとうに便利だ。自分では軽くくだけた調子で書いたつもりであることを、その一文字でかんたんに表現できる。つまり、ぼくはそれに頼らずなんとか文章でニュアンスを伝えたいと思っていた。こちらが面白いと思っていること、相手に面白いと思ってもらいたいことを、読んで伝わることばで書きたいと。

友だちなんかと交わす些細なやり取りにもそのルールは適用されるから、けっこう大変だ。ひとことの返信でも「これだとぶっきらぼうに感じられるかな?」なんて気になってしまう。

でもあまり「考えた」返信であることが感じられると、せっかくの会話のリズムというか、そこで生まれていた軽妙な雰囲気を損ない、相手を白けさせてしまうだろう。そんなこんなをうだうだと悩みつつ、ことばを選んでいた。

 

それが実際的に何かの役にたったのかはわからない。というか、ほとんど何もないだろう。

でも、その自分なりに練りに練って投げた文章に対して、相手が期待通りのリアクションを返してくれるととても嬉しい。伝わった実感を得られると、かんたんに(笑)で済ませなくて良かったと思う。究極の自己満足だ。

 

と、ここまで書いておいてなんだけど、最近はけっこう使う。

むしろ多用している。

ひとに苦労してまで何かを伝えたいという欲求がなくなってきているのか...

一度使うとその異常な便利さから抜け出せない。もう歯止めがきかない。

でも書くたびに、心の中でちょっぴり罪悪感を感じている。

そんなまだほんの少し残っているこだわりを成仏させるために、今日はこんな文章を書いてみた次第だ。

 

正月休み最終日。あらためて心に刻む。

明日から仕事始め。アイドリングも兼ねて会社のPCを開きメールチェックなどをした。

 

ついでに会社の掲示板を見ると、社員の訃報が載っていた。年末に亡くなっていたらしい。その事実と日付だけが記されていた。ぼくの1歳下だ。部署は違うが仕事で何度かお世話になった。彼の担当クライアントではないことでアドバイスをお願いしても、いつもとても親身に対応してくれた。とても親切で、仕事ができる人だった。その彼が、いまはもうこの世にいないらしい。

人は死ぬ。そのことを強く実感したのは、やはり父が亡くなったときだろう。父も、人生がそんなに早く終わりを迎えるとは思っていなかったはずだ。ぼくはそのとき、自分にはあとどのくらいの日が残されているかわからないけれど、できるだけやりたいことをやって、やりたくないことは避けて、悔いを少なくして生きることを心がけるようにした。

だけど今日の訃報をみて、まだ足りないと思った。その日は本当に明日くるかもしれないんだ。今日とった妻への態度、子どもにかけることば、自分がもし明日この世から去ることになったら、それを後悔したくはない。いつも別れを意識して過ごすというのは、ことばにすると少し違和感もあるが、本当に大切な人とはそのくらいの気持ちで日々向かい合っていた方が、幸せには近づくのかもしれない。

いつ終わりを迎えるかは自分ではどうしようもない。でも後悔を残さないためにできることはある。

 

子どもへの願望

子どもがゲームばかりやっているとイライラしてしまうのはなんでだろう。

 

元気に走り回っているのを見ると嬉しくなるのはなんでだろう。

 

で、ふと思った。

 

もしかすると、人間に限らずどんな動物の親でも同じなんじゃないだろうか。

 

自分の子どもが、これから生き抜いていくうえで必要不可欠な身体の元気さを確認できると、安心する気持ちが生まれるのではないだろうか。

 

体を動かすことなく家でダラダラ過ごしているのを見ると、本能的に不安を覚えてしまうのではないだろうか。

 

なんだか、いろんなことがこの「親としての動物的本能」として考えると腑に落ちるような気がした。