にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

屋久島旅行の備忘

夏休みど真ん中でも21時にもなれば、 車はほとんど走っておらず道は真っ暗。

スーパーは20時まで。閉店間際は食べ物の棚は空っぽ。

アブや蚊はたくましい。虫よけも効いているのかいないのか。

これだけ有名な場所でありながら、 観光客向けに最適化された環境は存在しない。

 

でも最高。いや、だから最高なのか。

圧倒的に濃く荒々しい樹木の茂り。

暴力的なまでの水量が轟音とともに叩きつけられる滝のしぶき。

波打ち際からすぐに深さを増すシビアな海で、 悠々と泳ぐ無数の魚たち。

 

ちょっと油断したり運が悪ければ、すぐにケガをしたり、 事故に合う可能性もあるかもしれない。

だからこそ、人間も自然の中で生活させてもらっている、 ささやかでちっぽけな構成員の一部だと心の底から実感できる。

 

リゾート地の無防備な開放感とはちょっと違う。 動物としての本来的な感覚が呼び起こされるような、 アウトドア寄りの解放感だ。

 

あとは、飲食店のレベルが高い。

素材がいいのはもちろんだろうけど、 その活かし方をよくよく知っている人たちという感じ。

 

クセになる魅力がある。何度でも行きたい。
 

読書感想文「黒牢城」(2021年 米澤穂信)

米澤穂信の小説はこれが初めてだったけれど、 まず文体が好みだったからのめり込んで面白く読めた。

実はこの前に、別の著者で、 こちらもとても評判が良い時代小説を読んでいたのだけど、 合わなくて途中で挫折していた。

ぼくはどちらかというと抑制がきいたというか、 感情表現が露わではない文章が好きだ。

演技に例えるなら、泣かずに泣かせるというか。

「感動させよう」「泣かせよう」 みたいな作者の意図が透けて感じられてしまうと、 とたんに醒めてしまい、 それ以上読み進める気がなくなってしまう。

まあ、ひねくれものなんでしょうね。

 

黒牢城は、 そんな僕が余計な勘ぐりをするスキもない磨きこまれた文章と、 緻密なストーリーが調和した作品だった。

荒木村重、 そして黒田官兵衛という実在の登場人物と史実をベースにした「 ミステリー」という枠組みに入るものらしいのだけど、

城内で巻き起こる事件と深まる謎をめぐって、 村重と官兵衛の駆け引きや、 村重の家臣に対する信頼と疑念の狭間でゆれる胸中、 そして下されるいくつかの決断など、「人」 を描いた文学作品としての読み応え、重みが感じられた。

 

言葉や情景から炙り出されるような絶妙の心理描写に、 常にヒリヒリとした緊張感を感じながら読み進め、

解き明かされる謎と、 辿り着く結末の見事さに読書を堪能した満足感があった。

 

もうひとつ面白く感じたのは、読んだ後にamazonのレビュー を見たときのこと。

もちろん圧倒的に高評価が多いのだけれど、中には「 史実の結末から逆算してこじつけただけ」 というような感想があった。

また、著者の過去の名作と比べて「色」 が異なることを残念がる人も。

 

当たり前のことだけれど、同じ作品を読んでも、 それまでの知識やバックグラウンドによって

受け止め方は様々に変わるんだなあと。

 

ぼくは米澤さんの本も初めてなら、 村重のことも官兵衛のこともよく知らず、 したがって元になる史実も知らないまま読んでおり

つまり何の事前情報もない状態だったのだけど、

もしかすると、そんな人が一番楽しめる作品なのかもしれない。

 

これほど完成度の高い黒牢城でも米澤ファンからは「残念」 という声が出るほどだから、過去の作品はどんなだろう。 今後の楽しみとなる作家が一人増えて嬉しい。

東京

出張で東京にきている。

正確にいえば、東京からさらに2時間ほど電車に揺られて到着する埼玉の外れが仕事の目的地だ。

 

久しぶりに首都圏でこれだけ長い時間電車に乗って、あらためて思ったのは「よくこんなに人が住んでるな〜」ということである。

 

普段ぼくが暮らすところも地方の大都市と呼ばれるが、中心から電車で20分も離れれば、車窓から見える家はまばらになり、駅周辺に固まっているくらいだ。

 

でも首都圏では、ずうっっっと人が住んでいる。

昔東京に住んでいた頃は、ぼくの家も渋谷から1時間程度かかる場所だったから、その頃は何とも思っていなかったけれど、今はなんとなく圧倒されてしまう。

 

ソーシャルディスタンスが叫ばれたあの頃、こっちに暮らす人と地方に住む人では、ストレスの感じ方も全然違ったのかもしれないなと、今さらながら考えたりした。

腰と網棚

何をかくそう(というほどのことではない)ぼくは腰痛持ちだ。ある程度年をとると、誰もが何かしらカラダの不調をなぜか自慢げに語るようになるものだけど、ぼくは腰痛を語ることにかけてはそこそこ自信がある。

ということで腰痛にまつわる最近のちょっとした悩みを書いておく。

 

どうも座っているのがしんどいので、状況が許す限り、寝転んでいるか立っているのが基本的な姿勢だ。なので電車ではまず立つようにしている。

通勤・仕事中の移動ではリュックをしょっているのだけど、やはりこれも腰には負担なのでできるだけ網棚に乗せる。

 

ところが、ここでひとつ厄介な問題があって、ぼくが住む街の地下鉄には網棚がないのである。

費用をケチったのか、どうせ混まないから立って乗る人のことを想定しなかったのか、まったくもって理由は不明なのだが、とにかく網棚がない。

ぼくもいろんな場所でいろんな電車や地下鉄に乗ってきたが、そんな車両は他に見たことがない。

以前その地下鉄に乗っているとき、どこかの観光客が乗り込んでくるやいなや、でっかいリュックを(普通の地下鉄には網棚がある場所)によっこらしょと放り上げ、真下の席に座っていた不運なおばさんの膝にどーんと落ちたのを目撃したことがある。その人の不注意もまあ度が過ぎているが、網棚がないなんてその行動と同じくらい理解できないことといえる。

 

ぼくはさっきも書いた通り、基本的には立っているけど、リュックをしょって立ちっぱなしはやっぱり腰が痛い。でも網棚はない。仕方なく空いている席に荷物を置いてその前に立つことになる。だんだん混んできたとき、その行為がとても気まずいのである。

荷物で座席を占領してマナーがなってない人ね、なんて囁かれているような気がして落ち着かないのだ。

でもちょっと待ってほしい。確かに、自分が座っている隣の席に荷物を置くのは褒められた行為ではないと思う。だけどぼくは立っている。占領している席はひとつ。座って荷物を膝に抱えているお行儀のよい乗客と同じはずなのだ。なのになぜ肩身の狭い思いをしなければならないのか。いや、別に誰に文句を言われたわけでもないんだけどね。でもぼくの行為に眉をひそめている人の存在を勝手に感じてしまう小心者なのである。それもすべては網棚が無いから。ほんと困ったものだ。

戦争

ふだんぼんやりと思っていた考えが、現実を前にしていかに薄っぺらい理想論だったかというのを、思い知らされている。

 

たとえば、ロシアの侵攻、ウクライナが一方的に攻め込まれていることに対して、他国が一切派兵せず見殺しにしているのはけっこうショックだった。イラクによるクウェート侵攻のときの「多国籍軍」の記憶が強烈に残る世代としては、他国を侵略する「ならず者国家」には「国際社会」が団結して成敗に乗り出すイメージがあったのだ。しかしそうではなかった。当然のことながら「国際社会」の国々も、あくまでも自国の利害とのバランスで動いているだけなのだ。

 

でも「ショック」なんて言っている自分だって、ウクライナを救うために本当にアメリカやヨーロッパがロシアと全面戦争することを望んでいるのか。そうなれば日本だってただではすまない。そうなってほしくないという、自分本位な気持ちが勝ってしまうのは否定できない。

 

それからウクライナの防衛についても。圧倒的に戦力で劣るにも関わらず、男たち全員で立ち向かうという。「国を守る。」頭の中では自分もそんな人間でありたいと思う。でももし本当に自分がその立場になったら。たとえロシアの統治になったとしても降参して生き延びる道を望んでしまう気がしてならない。

 

さらにロシアの侵攻にしたって、プーチン大統領は西側諸国のウクライナへの対応や工作への危機感を募らせていたようだ。彼にしてみれば「やらなきゃ殺られる」ということだったのかもしれない。

 

何もかもが正解などない、どちらを選んでも厳しい道。これが現実というものなのか。

 

でも、国同士は常に争い緊張感を孕んでいるのが現実なのだとしても、やはり「戦闘」は一刻も早く終わってほしい。市民が殺されるようなことはなくなってほしい。それがいち一般人の単純なる願いだ。

やりがいとか、生きがいとか。

誰かに求められること、それが感じられることっていうのが、生きがいを生むのだと思う。

ちょっとしたことに感謝されたりしただけで、驚くほど自分のエネルギーが湧いてくることがある。それは相手が家族だったり、会社の人だったり、ペットということもあるかもしれない。いずれにしても他者との関係だ。それがあることで、人生にはくっきりとした輪郭のようなものが現れる。自分の存在を確かに感じることができる。

 

働くこと、お金儲けもそこに繋がるんじゃないだろうか。いくらお金になる仕事でも、やりがいを感じられないことがある。それは、そこに誰かの幸せや喜びが見えない場合だ。 ただ自分の時間・体力・精神をすり減らす対価としてのお金は、うれしくない。やるからには、うれしい仕事をしたい。

翻って考えたとき、自分もきちんと感謝を伝えられる人間であろうと思う。

犬のこと。

ぼくは犬好きだ。と書くと猫のことはそうでもない人のように感じられるかもしれないが、実家では犬も猫も飼っていたから、そのかわいさや魅力もよくわかっている。

ただとにかく犬を思う気持ちが大きすぎるのだ。なぜ犬がそんなに好きなのか、ちょっと考えてみたい。

 

まずはあの「目」だろう。丸い。黒い。そしてなぜかいつも少し濡れている。ピュアなハートがそのまま表に現れたかのようなあの目は、こちらへの親愛と好奇心に満ちている。人は、自分を信頼してくれる存在を愛する。それは遺伝子レベルで決まっている哺乳類としての本能かもしれないけれど、犬はそこを刺激してやまない目をもっている。

 

もうひとつは「身体能力」だ。

もちろん猫の能力もものすごいし、室内犬の中にはか弱い犬種もいるのだろうと思う。でもぼくが身近に接してきたシェパードや柴犬は、その締まった体にとんでもない力を滾らせていた。シェパードは言うに及ばずだが、柴犬でも人間がケンカしたら2、3人がかりでも勝てないだろう。ぼくが子どもの頃は実家が農家で、敷地だけは広大だったから、犬と遊ぶときも思いっきり跳んだり走ったりしているのを間近で見ていた。本気を出したときの敏捷性とパワーは、想像を遥かに超えていて、ちょっと恐ろしさすら感じたほどだ。

 

自分より強く、かつ自分を信頼して甘え、愛してくれる。そんな関係性の存在は、犬以外にはないだろうと思う。

 

ぼくは犬と一緒に育った。体を撫でたときの手触りや、抱きしめたときの体温の記憶が、心の深いところで自分を支えてくれていると感じることがある。たぶん世の中には同じような人がたくさんいるだろうと思う。

 

最近ふと考えることがある。自分にとってかけがえのない犬という存在に、何か恩返しがしたい。いや恩返しというのは傲慢かもしれないが、人々に飼われている犬たちが、少しでも楽しく過ごせるような場や機会を作れないだろうか。残りの人生でそんなことに関われたら、とても幸せかもしれない。