ぼくが通っていた福岡の小学校は8月9日と15日が登校日で、体育館に集まり黙祷したりしていた。天候によっては長崎に落とされた原爆は北九州に落ちていたかもしれず、そうなっていたらぼくはこの世にいないと、ばあちゃんから聞かされたこともある。じいちゃんは戦場ですぐ隣の人が撃たれて死んだという話をよくしていた。小学校の図書館にはマンガといえば「はだしのゲン」だけだったからとりあえず読んだ。そんな風に自然と、原爆や戦争が多少なりとも自分に関係あることとして感じられる環境で育ってきた。自分の子どもにもそうあってほしいけれど、なかなか難しい。学校ではまだ戦争のことなんて何も教わっていないようだし、図書館には、はだしのゲンをわざわざ手に取らなくても、もっと面白い本がたくさんあるみたいだ。親としてどうしたらよいかよくわからない。というかどうしようもない。ぼくらの世代が、たとえば明治維新のころまで日本人同士が内戦で殺しあっていたなんて聞かされてもぜんぜんピンとこないし、大河ドラマの中の話でしかないのと同じようなものなのかもしれない。それだけ平和が長く続いているのは良いことには違いない。でも今後は大丈夫なのか。世の中の動きを見ているとちょっと心配になることもある。もちろん個人の力ではどうしようもない。でも少なくとも、自分はどんな場合でも戦争とは距離を置く選択肢を選ぶ方でありたいし、できたら子どもたちにもそうあってほしいと願う。
フェス!
初めてフェスというものに行った。北海道で開催されたライジングサン・ロック・フェスティバル。仕事でたまたま行くことになったので、自分が詳しいアーティストがいるわけではなかった。そしてしつこく降り続く雨。また雨。そんなこんながありながら、率直に言って最高だった。ヤバかった。マジ卍。
世の中にあれほど笑顔があふれている場所があるだろうか。ディズニーランドだって、列に並ぶお父さんはしぶい顔をしているというのに、RSRでは親の趣味で連れてこられたキッズたちも楽しそうに走り回っていた。何度ぬぐってもレインコートのフードからしたたってくる雨さえも、非日常感を増幅し、思い出をより思い出たらしめる舞台装置のように思えた。反省はするけど後悔はしないことがモットーのぼくが、これまでこの楽しさを知らずに生きてきたことをちょっぴり後悔した。好きなアーティストの単独公演ももちろん楽しいけど、次は誰を見ようか、その間にあれを食べよう、なんて考えるだけでわくわくする体験はそれこそ「夢の国」にいるかのようだ。そう、まさにディズニーランドのように、観客が何の混じり気もないピュアな興奮と感動を味わえる空間だった。その裏側では制作会社やアーティストのプロフェッショナルな努力と準備があって成り立っていることも共通している。
そう考えると、オリンピックというのももう少しなんとかならないものだろうか。純粋にアスリートのパフォーマンスを楽しむには少しばかり、カネや政治の駆け引きで蠢く思惑が見えすぎている。お祭りとして観客視点に徹したプロフェッショナルな運営を期待したい。
それにしても、ハナレグミが即興で歌った今夜はブギーバック。あれをもう一度聴くためだけにでもスペースシャワーTVに入ってしまいそうだ。
旅行好き
夏休みをとって家族で旅行に行った。
旅行には目がない、という言い方があるのかわからないけど、旅行に行くとなるとあまり後先考えずに奮発してしまう。他のことで節約しても旅行には行きたいと思ってしまう。
旅行は行って楽しく、帰ってきてホッとする。なんと二度おいしいのである。
旅行中が楽しいのは当たり前だが、自宅に着いて「やっぱりなんだかんだ言って我が家が一番だな~」なんて思うのもまた地味に至福のひとときである。
家から遠い場所に行けばいくほど、その振れ幅も大きいから満足度も高い。
来年はもっと奮発できるように仕事を頑張ろう。
「子どものため」禁止
先日キャンプに行ったときのこと。川遊びができるキャンプ場ということで、子どもも喜ぶだろうと楽しみにしていた。行ってみるとまさに自然の中の小川で、とても良い雰囲気。先に来ている家族がわいわいと遊んでいた。
しかし、である。
テントも張り終わってさあ川遊びしようとなったら、うちの二人は「え~」なんて言い出した。曰く「ボール遊びの方が楽しい」「濡れるのやだ」などなど。
親としてはかちんときてしまった。
ボール遊びなんていつでもどこでもできるのに、と。
奥さんと二人で、うちの子たちはなんてつまらない子なんだろう、とぷりぷり怒った。
でもいま冷静になってみると、そんなことで怒るのはやっぱり理不尽ですよね。
親が勝手に「子どもが喜ぶ」と決めつけていただけなのに。子どもだって、川遊びしたいときもあれば気が乗らないときもあるのは当たり前なのに。
「子どものために」なんて考えはロクなことにならない。お互いにとって悲劇のもとである。自分が楽しいことが、子どもにとって楽しければなお良し。何事もそのくらいのつもりでいるのがいいだろう。
白でも黒でもない自分でいたい
なんだか最近白黒はっきりつけたい人が多いようだ。右か左か。敵か味方か。
でも味方じゃないからといって敵とは限らないよね。
それに誰にだっていいところもあれば悪いところもある。敵とみなした人の悪いところばかりあげつらって、良いところは見ないフリをするというのはやっぱりフェアじゃない。
好きな人をエコひいきするのはいいと思うけれど、同時に、苦手な人や合わない人の良いところも見つけられるような人間でありたい。
子ども向けと子どもだまし
コロコロ編集部の人の発言だと思うけれど、今日twitterで流れてきて、なんかゴツンと殴られたような衝撃を受けた。
曰く、「子ども向け」は大人の自分にとってもカッコいい、おもしろいと感じるものを「子どもにも伝えたい」とわかりやすく表現したもの。対して「子どもだまし」は、自分は面白いと思わないけど、子どもはこんなものが好きだろうと勝手に想像して作っているもの。だいたいそんな主旨だった。
ぼくは仕事でいろんな商品やサービスの広告コミュニケーションに関わらせてもらっているけれど、その中には当然自分がターゲットではないものも多い。そこで考える企画というのはつい「(自分はピンとこないけど)ターゲットの人たちはこういうのが好きなんだろう」というものになりがちだ。でもそれはまさに「子どもだまし」の思考だと気づかされた。
自分が面白い、考えていて楽しい、熱中できる。そんなアイデアを、どう料理してターゲットに受け入れられるものにするか、順番としてはそうあるべきなのだ。
「子ども向けと子どもだまし」これは肝に銘じ、何度でも思い返したい。
宿題としての読書感想文
4年生の息子が夏休みの宿題に読書感想文を書くらしい。
最近彼は、ぼくが持っている「あしたのジョー」を読みふけっているので、冗談半分で「ジョーの感想文書けば」と言うと真剣に「マンガはダメなんだよ!」と怒った。どうやら指定図書というのがあるらしい。
そこで「なんでマンガはだめなの?」と聞くと、うーんと考えたあと「先生が言ってたから」なんて情けないことを言う。
もうひと押し「自分ではなんでダメだと思う?」と訊ねると、さんざん考えて「本の方が説明の文章とかあって勉強になるから」と答えた。
確かにそうだね。お父さんも別に答えをもってるわけじゃないけど、言われてみるとそう思うよ。
たぶんそれぞれにいいところがあるのだと思う。本はやはり想像力を働かせるし、語彙だって増えるだろう。
一方でマンガはセリフのない一コマやちょっとした表情にも意味がある。そこを無意識に読み解いていくことで育まれる感受性だってあるはずだ。
感想文の宿題というのは、自分の感想を表現するための「文章力」を養うことが目的なら、それはきっとマンガでも映画でもかまわないだろう。
でもそうではないというなら「本を読ませること」が目的ということか。
もちろんそれならそれでもいいのだけど、ひとつ気になるのは、興味の湧かない本はどれだけ目で字を追ってもひとつもアタマに入らないし、強制されたところで何の役にも立たないだろうということ。
本を指定するというなら、子どもたちを本好きにしてやるという意気込みで、選書には徹底的にこだわってくれているといいなと思った。