にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

席を譲るのが面倒くさい

前に立った人、近くで立っている人。ちょっとお年寄りっぽいな〜とか、あの人妊娠中なのかな、なんか座りたそうにしてるな。とか。

 

譲った方がいいのかしら。でもオレも疲れてるし。譲ろうとして断られたらなんかヤだし。とか。

 

あれこれ考えてしまうのがとても面倒くさい。

だからぼくは電車では座らないようにしてます。

 

気配りと過保護のあいだ

子どもは大切だしかわいい。

できれば事故や病気などせずに健康に育ってほしい。

だから「なんか危ないな」と感じたら、ついつい先回りして指摘してしまう。

 

その結果なのか、長男はやや指示待ちで受け身の性分だ。

奥さんからも、あんたが過保護だからと言われる。

 

確かにそうかもしれないと思う。

だけど、何かあったときに「親のぼくらがもう少し気を配ってあげたら防げたかも...」と後悔はしたくない。

どのあたりが適切なアンバイかなんて答えはない。悩ましい問題だ。

 

どちらにしても成長するにつれて、親の目を離れて行動する機会はどんどん増えてくる。

そのときに一つでも二つでも「親がうるさく言ってたな」と思い出して、注意深くなってくれたらいいのだけど。そう思って、今のうちは過保護路線を継続していこうと考えている。

「髪染め問題」でどうしても気になること

何かを批判するのはたやすい。

このブログは、書くことの「訓練」の場なので、世の中の話題に乗っかって論評するような安易なことは少なめにしてきたつもりだ。

 

でも一つだけ、ものすごい違和感に襲われていて、どうしてもその思いを何かにぶつけておきたいことがある。

 

それは最近話題になっている「髪染め問題」についてだ。

 

生まれつき髪の茶色い女子高生が、校則により無理やり黒髪にさせられたという件。

 

言うまでもなくヒドい話だ。

批判されて当然だと思う。

 

でも一連の報道や騒ぎを見ていて腑に落ちないのは、ぼくの見る限り多くの批判が「生まれつき」の茶髪を強制的に黒髪にしたことへ向いている、ということ。

 

いやいや、「生まれつき」かどうかが重要なんじゃなくて、そもそも「髪の色」を強制することに何の意味があるのか、という批判がもっとあるべきなんじゃないかという気がする。

 

髪の色だけではない。世の中の校則には、ほとんど人権侵害とも思えるような、人間教育に何の意味もなさそうな縛りが山ほどある。

 

この髪染め問題を機に、そんな非常識な規則にも批判の目が向いてほしいと思う。

けれど「生まれつき」という前提がつく議論にとどまっている限り、それは望めない。

 

そこがなんとももったいなく、歯がゆい気分でいっぱいなのだ。

ペットと子どもの違い

子どもは2歳くらいまでは、ほとんどペットのようだと思う。

 

実家ではかつて犬も猫も飼っていて、ぼく自身がペットとまさに家族として過ごしてきた経験から、そう思う。

 

つまり、ただひたすらに可愛がってあげられる存在ということだ。彼らに実利的な見返りを求めることはない。そこに存在してくれるだけで、自分にとっての力になったり癒しになったりする。

 

ではそこから先、ペットと子どもは何が違ってくるのか。

一番大きな違いは、子どものためにあえて叱ったり、厳しい道を歩ませる必要が出てくることだと思う。

親としても、覚悟を試される辛い選択がたくさんある。ただ可愛がってあげればよかった時期は、もう戻ってこない。

 

ペットはどちらかが先に死ぬまで、ずっと一緒に過ごすパートナーだけど、子どもはそうではない。いつか一人の人間として巣立っていく。そのための成長を促していかなければならない。

 

自分自身が大した人間でもないのに、子どもを一人前にしなければと悩む。そのことでまた親として、人間として、自分も成長しているのだと思う。同時に、自分の両親が注いでくれた愛情に気づいたりもする。

 

子どももペットも、どちらもかけがえのない存在だ。

 

町田康が愛犬を悼む歌「スピンク」を聴いているうちに、そんなことを考えていた。

 

 

 

自分がやりたいこと

なんとなくこれからの生き方、仕事を考えたときに、最近、自分が何をしたいのかがよくわからない。

 

まず前提として、今のままでは、生活のために会社にしがみつく50代になってしまいそうという危機感がある。

できればそうはなりたくない。

 

世の中に必要とされる人材でありたいし、会社員であろうとなかろうと、自分で稼ぐ力をもっていたいと思う。

 

じゃあいったいどんな力を身につければよいのか。

自分の強みと弱みは何なのか。

一度冷静に分析してみるべきかもしれない。

 

苦手なことは楽に思いつく。

特に親しくない他人に対して、自分からコミュニケーションを仕掛けていくことができない。めちゃくちゃストレスを感じてしまう。できれば避けて通りたいところだ。

 

何か課題を与えられて、その解決策を考えるのは好きだ。どうすれば人が動き、モノが売れるのか。その企画やアイデアを生むための苦労はストレスに感じない。

自分の生きていく道は、そっち側で切り開いていくしかない。

 

今の仕事は、戦略立案といえば聞こえはいいが、要するに「能書き」にとどまっていることが多い。

もっともっと、リアルに人を動かすことに直結する能力を磨いていきたい。

 

ウェブで自分で何かを売ってみることから始めてもいいかもしれない。

 

とりとめなく書いてしまったけれど、今後自分のアタマを整理していくためのメモということで。

 

とにかく動こう。

映画感想文 「チャッピー」

前から気になっていたこの映画。

Netflixで視聴した。

 

大傑作「第9地区」のニール・ブロムカンプ監督作品だ。

前作エリジウムがどうにもパッとしない印象だったけれど、チャッピーは第9地区と同じくらい強烈な余韻を残す映画だった。

 

ヨハネスブルクを舞台とした近未来における、知能をもったロボットと人間を描く作品。

全編を通して「人間って何なのか」「ロボットやAIとどこが違うのか」を考えさせてくる。

 

カラダは単なる容れ物なのか。ココロや記憶こそが人間にとって重要なのか。

 

映画を観終わっても答えはわからない。むしろ、ますますモヤモヤする。

でもこんな疑問は、この映画を観る前には感じたことはなかった。

 

自分にとって新しい世界を見せ、価値観を揺さぶってくれる、お気に入りになりそうな一本でした。

 

性格は遺伝するのか

うちの長男は生真面目というか、あらゆる「決まり」に従順である。

学校の決まり、先生が言ったこと、親の言いつけ。行動の理由は「言われたから」であって、それ以上でも以下でもない。

もう少し自分のアタマで考えることをしてほしいと思うけど、子どもなんて(というか自分だって昔は)そんなものかもしれない。

だいたい、アタマで考えろなんて言う一方で、言いつけを守らずに余計なことをしたら怒りたくなってしまうのだから、親なんて勝手である。まあそれはともかく。

 

次男はもう少しユルい人間だ。親がいつまでも赤ちゃん気分で甘やかすのをいいことに、割とマイペースで自分のやりたいことをやりたいように行う傾向がある。

それは家でも幼稚園でも変わらないようだ。

 

長男は発想力に乏しいところがある。日記とか絵画なんかは超適当。でも与えられた問題を解いたり、根気強く練習したりすることは得意だ。そして目立ちたがり。学芸会の前なんかになると、覚えてきた歌や踊りを家でも見てもらいたくて仕方ない。

 

一方で次男はお絵描きが大好き。自分の頭にあるイメージを表現することが得意みたいだ。でも苦手なことはとことんやる気がない。というか人前でできない姿を見られることが嫌なようだ。

そして恥ずかしがりやである。幼稚園児のくせして日記すら親に見せたがらない。幼稚園で練習した歌や劇なんて、頼んでも家では絶対やらない。でも本番を観に行くときっちりこなしている。

 

長々と書いてしまったが、つまり正反対の性格の二人である。(ちなみに外見はよく似ている)

ほんとに同じ両親から生まれてきたのかと思うほど。

 

どちらもぼくや奥さんに似ているところもあれば、違うところもある。たぶんどこの子どもを連れてきても、一つや二つ、自分に似ているところはあるんだろう。そう考えると、性格の「遺伝」なんてものは、ほとんど迷信レベルのことかもしれない。

 

育てられ方や、もともともっている固有の人格によって、彼らの性格は出来上がっているように思える。

 

つい子どものことはなんでも分かっていることが前提のように思ってしまうけど、そんなわけはない。ひとりひとり別の人間であるという当たり前のことを、もっと意識してふだんから接していきたいと思う。