にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

音楽と記憶

唐突だけど、「嵐の素顔」工藤静香のこの曲を聴くとかならず浮かんでくる記憶がある。小学生のとき、父親と車で日本縦断の旅行をした。ひたすら車に乗って、カセットテープの音楽を聴きながら、通り過ぎていく街の風景を眺めていた。

 

父親は歌謡曲には興味がなかったから、きっと姉あたりが編集してもたせてくれたテープだったのだろう。なぜか嵐の素顔、そして爆風スランプのRunner。その二曲が、強烈にそのときの記憶と結びついている。

 

曲自体が好きかどうかとは別に、よく耳にした「あの曲」は「あの頃」とセットで、記憶のどこかにしまわれている。

 

たとえば辛島美登里の「サイレント・イヴ」。中学時代、田舎町でひたすら好きな女の子のことを考えて悶々としていた、実家の部屋が蘇ってくる。

 

ブラックアイドピーズのwhere is the loveを聴くと、オーストラリアのシェアハウスと、そこで毎日飲んでいたビールの味を思い出す。

 

セルジオメンデスのmas que nadaは、当時密かに気になっていた子が、ある日CDを焼いてぼくにくれたアルバムに収められている。天にも昇る心地で、擦り切れてもおかしくないくらいに聴きまくった。彼女は今どうしているのか...

 

ここ数年、以前ほどは音楽をあまり聴かなくなったけれど、やっぱり音楽は大事だ。

音楽を聴くことでしか思い出さない記憶がたくさんあるから。

いま聴いているあの歌は、10年、20年後、どんな思い出を甦らせてくれるだろうか。

 

 

zozosuitの遅延について

zozosuit が届かない。

メールを見ると注文したのが11/22。もう3週間近く経つけれど、一向に出荷される気配はない。

 

なんだけど、そこにまったく「腹が立つ」という感情が生まれてこない自分がいる。

なぜなのかちょっと考えてみた。

 

もちろん無料だから、というのは1つの要因だろう。

仮に5千円なり1万円なりで決済していたら、もう少しはヤキモキしていたかもしれない。でも一番はそこではない。

 

自分にとって最も大きな理由は、きっと「未体験」のものだからだ。

いまだかつて「zozosuit (のようなもの)のある暮らし」を体験したことがない。

 

だから、届くのを首を長くして待ってはいるが、それが無いからといって今の生活が不便になるわけじやない。

そもそもzozosuit によって自分のライフスタイルがどのように変わるのか想像もつかないのだ。でもなにか大きな「人類の進歩」となるような期待がある。

 

だからどれだけ待たされてても、生まれるのはネガティヴな感情ではなく「ワクワク」でしかない。

 

これほどの「未来」を感じさせてくれるのはiPoone以来かもしれない。とまで思ってしまう。

 

もっとも、待たされれば待たされるほどワクワクが高まりすぎて、実際のプロダクトを目の当たりにしたときに「期待外れ」とならないか、それだけが少し心配ではある。

 

エアロバイクを買ってみた

草野球の下半身強化のために、普段は外をランニングしているけど、雪深い地域なもので冬はなかなかそうもいかない。

 

雪道用のスノトレで走ることもあるけれど、さすがに寒過ぎるとか、吹雪いていて視界もままならないなんてこともよくある。

 

そこでついにエアロバイクを購入することにした。

 

エアロバイクといえば、買ったはいいもののそのうち粗大ゴミと化す定番アイテムである。

昨年あたりから迷っていたが、以前ジムに通っていたときに、けっこうハマっていたこともあり意を決してアマゾンをポチッとしたのだった。

 

今は戸建てで部屋のスペースにもそれほど支障がないから、奥さんも意外に反対することはなかった。

 

2ヶ月ほど使ってみての感想。

なかなかいい。

 

さすがにジムのものよりは、多少ハンドルがガタつくとか、ペダルを漕ぐ感覚のぎこちなさはあるけれど、トレーニングという目的を達するには十分と感じる。

 

負荷は8段階。その日の気分に応じて、最大8の負荷で5分間全力で漕ぐパターンと、6の負荷でテレビを見ながら30分漕ぐパターンで使用している。

 

前者は完全に筋トレだ。終わった直後は太ももがパンパンになってフラフラになるくらいしんどい。

 

後者は有酸素運動だ。15分を過ぎた頃から汗がにじみ始め、20分あたりからは全身から噴き出してくる。タオルを首にぶらさげて拭き拭きしながらでないとエライことになる。

 

そんなわけで、「やった感」がハンパなく感じられるのがエアロバイクのいいところだ。

 

そしてなによりカラダに優しい。トレーニングで優しいというのも変だが、意図しない箇所を痛めるということがない。

 

ランニングをしているとよく膝や足首、アキレス腱などが痛くなり、体力の限界とは別に「これ以上はヤバいかも」という葛藤とも闘うことになる。そしてそこで無理するとロクなことにならない。

 

エアロバイクにはそれがない。純粋にスタミナと筋力、そして精神力が試されている。

どんなにしんどくても、途中でやめたくなっても、ペダルを「もう一回」くらいは漕ぐことができる。その「もう一回」の繰り返しだ。

 

そんなやめたい自分と5分、または30分闘って勝利したあとの疲労感はなんともいえず充実している。

 

ちょっと重たくて、普段置いている和室からテレビの前に移動させるのも一苦労ではあるけれど、今のところは大満足だ。

 

一年後のブログにも、まだ続いている報告を書くことをモチベーションに、ささやかな自分との闘いに勝ち続けていこう。

 

「夢」の話

はあちゅうさんが書いた記事を読んでいて、ああ素敵だなあと思ったこと。

 

その文章で彼女は、以前からチェックしていた行きたい店や場所に行けたとき、それを「夢が叶った」と表現していた。

 

たしかに、ちょっとした小さいことでも本人がそう思えば「夢」と呼べる。そして毎日のように「夢が叶う」体験ができる。

 

呼び方ひとつで、なんだか自分がとても幸せな気分になれる。とってもいいと思った。

 

たとえば自分だったら。

以前の職場の人と、面白くなりそうな仕事の話ができた。

仲の良い友人と飲みに行けた。

欲しかった靴を買った。

久しぶりにゆっくり昼休みがとれて、読みたかった本の続きが読めた。

 

意識して考えると、この数日でもたくさんの夢が叶っている。

 

ふだんツイッターやニュースを眺めていると、うんざりする世の中に見えてしまうこともあるけれど、全然そんなことはない。

 

きっとささやかな夢が気づかないうちにたくさん叶っている。人生捨てたもんじゃない。

 

席を譲るのが面倒くさい

前に立った人、近くで立っている人。ちょっとお年寄りっぽいな〜とか、あの人妊娠中なのかな、なんか座りたそうにしてるな。とか。

 

譲った方がいいのかしら。でもオレも疲れてるし。譲ろうとして断られたらなんかヤだし。とか。

 

あれこれ考えてしまうのがとても面倒くさい。

だからぼくは電車では座らないようにしてます。

 

気配りと過保護のあいだ

子どもは大切だしかわいい。

できれば事故や病気などせずに健康に育ってほしい。

だから「なんか危ないな」と感じたら、ついつい先回りして指摘してしまう。

 

その結果なのか、長男はやや指示待ちで受け身の性分だ。

奥さんからも、あんたが過保護だからと言われる。

 

確かにそうかもしれないと思う。

だけど、何かあったときに「親のぼくらがもう少し気を配ってあげたら防げたかも...」と後悔はしたくない。

どのあたりが適切なアンバイかなんて答えはない。悩ましい問題だ。

 

どちらにしても成長するにつれて、親の目を離れて行動する機会はどんどん増えてくる。

そのときに一つでも二つでも「親がうるさく言ってたな」と思い出して、注意深くなってくれたらいいのだけど。そう思って、今のうちは過保護路線を継続していこうと考えている。

「髪染め問題」でどうしても気になること

何かを批判するのはたやすい。

このブログは、書くことの「訓練」の場なので、世の中の話題に乗っかって論評するような安易なことは少なめにしてきたつもりだ。

 

でも一つだけ、ものすごい違和感に襲われていて、どうしてもその思いを何かにぶつけておきたいことがある。

 

それは最近話題になっている「髪染め問題」についてだ。

 

生まれつき髪の茶色い女子高生が、校則により無理やり黒髪にさせられたという件。

 

言うまでもなくヒドい話だ。

批判されて当然だと思う。

 

でも一連の報道や騒ぎを見ていて腑に落ちないのは、ぼくの見る限り多くの批判が「生まれつき」の茶髪を強制的に黒髪にしたことへ向いている、ということ。

 

いやいや、「生まれつき」かどうかが重要なんじゃなくて、そもそも「髪の色」を強制することに何の意味があるのか、という批判がもっとあるべきなんじゃないかという気がする。

 

髪の色だけではない。世の中の校則には、ほとんど人権侵害とも思えるような、人間教育に何の意味もなさそうな縛りが山ほどある。

 

この髪染め問題を機に、そんな非常識な規則にも批判の目が向いてほしいと思う。

けれど「生まれつき」という前提がつく議論にとどまっている限り、それは望めない。

 

そこがなんとももったいなく、歯がゆい気分でいっぱいなのだ。