にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

葬儀参列は誰のため

以前にとてもお世話になった人が亡くなった。

すごくショックだ。当然葬儀にも参列したいと思ったけれど、いかんせんずいぶん遠い場所で通夜があるから、仕事の都合をつけるのが難しい。

 

迷った結果、参列は見送ることにした。

そのときにアタマをよぎったのは「行かなかったら周りから冷たいと思われるだろうか」ということだった。

それって何のための参列なのか。自分の中で少し混乱してしまった。

 

故人の死を悼み、偲ぶことは離れていてもできる。

これがたとえば友人の親が亡くなったのだとしたら。参列することで、友人に対して何かしら気持ちを伝えることができるかもしれない。

 

でもお世話になった本人が亡くなって、そのご家族とは面識がなければ、何百人もいる参列者の一人というだけだ。

 

行く意味がないとまで割り切る気持ちにはなれないけれど、なんだかモヤモヤしてしまった。このことは今後も考え続けてみよう。

親の責任は重い

次男をスイミングに通わせることになった。

 

長男は幼稚園の頃から4年生の今でも続けていて、最初は顔も水につけられなかったのが、もうバタフライだってお手のものだ。ほかの運動はそれほど得意ではないけれど、水泳の授業やプールに遊びにいったときなんかはとても楽しそうで、文字通り水を得た魚のようだ。

成長期と相まって体型もがっしりと引き締まってきているのを見ると、水泳はやらせておいてよかったと思っている。

 

そんなわけで次男にも前から薦めていたのだが、幼稚園の頃に一度体験に行ったところ、ちょっと厳しい先生にあたってしまったらしく、すっかり挫けてしまった。以降はたまに話をもちかけてみても「う~ん…」「あんまりやりたくないんだよね…」という反応。まあ無理にやらせても、と見送ってきていた。

 

そんなこんなで1年生。このところ座る姿勢もめっきり悪くなり、足を組む癖までできてしまう始末。気が付けばゴロゴロ寝転んでマンガを読んでいる。このままだとなんか心配である。ということで夏休みをむかえるにあたって、今度はわりと強制的に「やるからね」というスタンスで話してみたら意外にすんなりと観念して受け入れたようだった。

 

本心ではあまり乗り気でないのはわかっている。半ば無理に始めさせるスイミング。本当にいいんだろうか?自問自答してしまう。彼にとってはよい結果につながるはず。そう信じているが、先のことなんて誰にもわからない。大きくなってからも「あのときの水泳がほんとに嫌だった」なんてことになる可能性だってあるのだ。

 

このところ親の責任の重さをつくづく感じる。ちょっとした判断ミスが子どもの価値観や考え方、将来にまで影響を与えてしまうかもしれない。ぼく自身だって自分のことで精いっぱいの未熟な人間なはずなのに。

 

でもとりあえず自分を、自分の子どもを想う気持ちから生まれる判断を信じてみるしかない。何年後かわからないけど、プールで楽しそうに泳ぐ次男の姿を見られる日が待ち遠しい。

おみやげ考

会社である催しがあって、この2日間東北各地から多くのお客さんが訪れてきた。みなさんおみやげをもって来てくれるのだけど、仙台組はなんといっても「萩の月」が多かった。福島からは「ままどおる」である。そして決まり文句のように「他社の方も同じものだと思うのですが…」と恐縮しながら渡してくれる。

しかしこちらとしては、萩の月ままどおるなら何個あっても大歓迎である。

ずらっと並んだ菓子箱はあっという間に空になっていった。

 

あらためて思ったけれど、やはり定番品には定番となるだけの理由というか、ちゃんとした「おいしさ」がある。いつもデスクでつまんでいる駄菓子にはない「品」があると感じる。しょっちゅう食べたらそりゃ飽きるとは思うけど、せいぜい年に1~2回しか食べる機会がないこちらとしては、やはりもらうと嬉しいものである。

 

自分が出張でどこかへ赴くときは、つい「何か目新しいものを」と考えてしまうけれど、反省した。相手からしたら珍しいかどうかより、外れがない「定番のおいしさ」が一番ありがたいのだ。これから気を付けよう。

サラリーマンのリスク

どんな環境でも命令でも受け入れられる覚悟があるなら、会社員というのは極めて安全だ。よほどのことがなければ身分は保証されている。

 

でもぼくにはその覚悟はない。

納得いかないことには声をあげるし、やっぱり自分で価値があると思える仕事をしたい。

その思いが満たされない状態が続くと、精神的にもたないだろう。

 

でもサラリーマンとして、それを維持していくのは至難の業だ。価値観の合わない上司もいるだろうし、給料を下げられると家族の生活にも影響がある。

 

やはり会社に依存しないで生きていける実力を一刻も早く身につける必要がある。

 

自分が生き残れる道は何か。焦って考えていこう。

父と母の使いわけ

次男は7歳になるがいまだに甘えん坊だ。朝起きたら布団にもぐりこんでくるし、居間でくつろいでると膝に乗っかってくる。

 

それがとてもかわいい。

 

というのは置いておいて。この前ふと気づいたことがある。

 

家族みんなで「ミニオンズ」を観ていたときのことだ。

次男は怖がりなので、どんな映画でもドキドキするシーンがあるのが嫌らしく、DVDで映画を観ようと誘ってもたいていは一人で別の部屋にこもっていたりする。

 

しかしミニオンズは興味に勝てなかったようで、奥さんの膝の上に陣取って観ていた。

ドキドキのシーンは耳をふさいだりしながら、でも楽しかったようで、終わったあとは長男と盛り上がっていた。

 

そんな子どもたちの様子はかわいい。

それはおいといて。

 

別の映画を観たときも、たしか奥さんの膝の上だった。

でもふだん、たとえばクイズとかバラエティとかのテレビを観ているときは、だいたいぼくのところに乗ってくる。

 

もしかすると、彼の中では意識的か無意識的か、父と母の使い分けがされているのかもしれない。

 

リラックスしているときは体がでかくて座りやすい父親、ドキドキしてしまう映画を観るときは安心できる母親、というふうに。

 

次からはその検証の目線で彼の行動を見てみよう。

 

でもいつかは膝の上を卒業する日が来るんだろうな。それがとても寂しい。

子どもの服装

常々、子どもには自分のアタマで考えられる人になってほしいと思っているから、出来るだけあまり細かいことには口出しをしないようにと気を付けている。

 

なんだけど、すごく暑い日なのに長袖を着てたりするとついつい「半袖着なさい」なんて言ってしまう。

 

子どもも頑固だから、たぶん内心長袖を選んだことを失敗したと思ってるはずだが、意地になって「暑くない」なんて言い張ったりする。

 

あとから考えると極めてどうでもいいことなんだけど、なぜ子どもの服装はあんなに気になってしまうんだろうか。

 

たぶん彼らが「学習」してないからだと思う。

ぼくら大人はしょっちゅう天気予報をチェックし、気温を確認できる環境にある。自然と、この気温ならこのくらいの体感、という感覚が身につく。だから今日の最高気温を聞くと「このくらいの服装がよさそうだ」という判断ができる。

 

子どもたちは天気予報を確認する習慣がないから、いつまでたっても、その学習ができない。だからつい口出しをしてしまうのだろう。

 

毎朝着替える前に、天気予報をチェックすることをさせたらだんだんと改善するだろうか。彼らの学習能力を試してみよう。

死への想像力

自分自身に降りかかるととんでもない災難でも、他人事だとまったく気楽に受けとめてしまうものがある。

 

その際たるものは失恋だろう。

本人は深刻なんだけど、周りは簡単に「忘れな」なんて言ってしまう。

 

自分が経験して初めて、こんなに辛いものかと気づいたりする。

 

経験しなければわからないという点では「身近な人の死」というのもそうだろう。

うちの息子たちは、いや自分の幼少期を振り返っても、子どもは気軽に「死ね」とか口にするし、死ぬことにかけた冗談を言ったりする。

 

縁起でもないと親は怒るが、どこか虚しい。

誰かに死なれることの悲しみは、どれだけ説明しようが説教しようが伝わるはずがないことは分かっている。

 

経験してほしいとは思わないけど、やはりどこかで分かってもらわないといけない感覚である。

難しいところだ。