にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

褒められたいオトコ

男は女の人に褒められると嬉しい。がぜんやる気が出る。言ってみれば女性の褒め言葉は「栄養」だ。女の人だって同じかもしれないが、ぼくは男なのでとりあえず男について語ることにする。以前は、スナックやキャバクラなど女の人が横についてくれる飲み屋に行く人の気持ちがよくわからなかった。お金を払って、よく知らない人と他愛のない会話をして何が楽しいんだろうとずっと思っていた。ぼくは人見知りなので、中年になった今でもそういう店は得意ではないけど、行きたい人の気持ちは何となく理解できるようになってきた。きっと女の人に「褒められたい」のだ。すごーいとか、かっこいい~とか言われたいのだ。ふだんから職場の女性に言われるモテ男でもない限り、年をとると日常生活でそんな機会はまずない。だからお金を払ってでも「栄養補給」に行くことが必要だ。世界中に一人でも、たとえそれが商売の人でも、自分を褒めてくれる女性がいたら少し自信を取り戻してまた明日からがんばれる。そういうことだと思う。本当は奥さんに言ってもらえると一番いいに決まっているけど。そのためにはまず自分が相手をほめるところから始めないとね。

トイレで得た教訓

会社のオフィスビルのトイレで個室に入っていたときのこと。定期的にお掃除に巡回してくれている女性の怒声が響いた。どうやら一緒に動いているもう一人の女性が新人さんらしく、やるべき作業を忘れていたことを責められていた。先輩女性はかなり鬱憤が溜まっていて、あれやこれやについても怒鳴りつける。また言われている方の新人女性は、すまなそうな声ながらも延々と弁解を続けている。それがまた先輩の癪に障り怒鳴るという繰り返し。


しみじみ思ったこと。「怒鳴る」も「言い訳」もまったく不毛だ。怒鳴れば、相手は反省よりも前に、なんとかその場を切り抜けることしか考えられなくなるだろう。そして怒鳴った方への恨みをもつはずだ。一方で、責められているときに言い訳をするのも、何もいいことはない。本人は正当な理由を主張しているつもりかもしれないが、聞いている方がそれで納得することはない。どんな理由があるにせよ、100%責任が無いなんてことはまずあり得ないのだから、とりあえず素直に受け止めることが必要だろう。ミスを素直に認める人には、相手からするとその場では怒っても、人としての信用が残る。


トイレの個室から出るタイミングを逃し、女性のやりとりに震えながら、ぼくは自分にそんなことを戒めた。

 

「年齢」はいらない

オランダの男性が、自身の年齢を、法律上20歳若返らせる「生年月日変更の申立て」を行ったというニュースを聞いた。


なんだかとても面白い試みだという気がした。聞いたときにはそれがどう面白いのかうまく頭の整理がつかなかったので、ここで自分なりに考えてみたい。


そもそも「年齢」というのは「事実」ではあるけど、それも元々は誰かが決めた時間軸に沿って定義づけられているに過ぎない。そういう意味では「性別」も同じことだ。そして性別は現代の世界においては、「定義づけ」することの不自然さが明らかになってきている。


性別を定義づけすることで便利なことも多々ある。だからこそこれまで長年に渡って維持されてきたのだろう。だけど、その便利というメリットを上回るデメリットを被る人々の存在が見えてきた結果、もうやめようという方向になってきている。そして、今度は「性別」を考えない世界が当たり前だと思ってしまえば、実際の生活で特に困ることもない、というのが実感でもある。


そこで年齢だ。1日24時間、1年365日という決まりが侵透している社会においては誰もが年齢を背負っている。年齢によって決められた法律も多いし、社会を維持するためには不可欠な定義だと考えられている。ぼく自身もそれを疑ったことはなかった。

だけどもし年齢が存在しない世界が訪れたら。きっと素晴らしいメリットも多く生まれるような気がする。日本における年功序列や、学年での先輩後輩のような関係はなくなるだろう。心理的なプラス面も大きい。たとえば仕事や恋愛への新しいチャレンジは「もう○歳なんだから」という呪縛により、自然と自分にブレーキをかけているようなことが多いが、それからも開放されるかもしれない。逆に世の中における、年齢を重ねたことによる、結婚や就職を「しなければ」というプレッシャーだってなくなるはずだ。


極端にいえば野生の動物と同じ社会だ。彼らはその「能力」によって立場が決まる。人間も年齢によるつまらない上下関係や制限がなくなれば、もっと純粋にその人の実力や魅力で人間関係ができることになるだろう。


まあ制度としての年齢がなくなることはないだろう。でも少しずつ、年齢の負の側面である心理的・慣習的な呪縛はなくなっていくのかもしれない。

そう思ったのは、車のラジオで何気なくメグ・ライアンの話題を聴いていたときだ。長年交際していた男性と婚約したというトピックを語る間、その男性DJは、一切彼女と相手の年齢についてふれなかった。一度離婚しているメグだから今度こそ幸せになってほしいですね、と締めくくった。聴いているぼくは正直言えば「あれ、彼女いくつだっけ?確かもういい歳だよな~」なんて考えてしまったのだけど、そこにふれないDJのトークにはとても好感をおぼえた。そして自分のつまらない発想を改めようと思った。


年齢はあくまでも「過去の積み重ね」でしかない。本来何かの行動基準としては、自分の人生における「残された未来の時間」を重要視するべきだろう。それは人によって異なるし、自分にはわからないことでもある。であるならば、やはり年齢を気にすることなく「今」やりたいことを大切に、一日を悔いなく生きるしかない。そんな言い古された結論に辿りつくのだ。

映画感想文「ボヘミアン•ラプソディ」

自分史上、もっともたくさんアルバムを買った洋楽アーティストであるQUEEN。高校生になり洋楽に目覚めた頃には、フレディは既に亡き人であったが、バンドをやっている友達にベスト版を借りたのが出会いだった。それから10枚以上になるだろうか、とにかく買っては聞き込みハマりにハマっていた一時期があった。


好きな曲は数えきれないが、特に”Somebody to love”のピアノのイントロはたまらない。聴けばいつでも泣ける自信がある。


今回の映画に関しては、ガッカリするのが怖くて観るつもりはなかったのだけど、特にファンでもないうちの奥さんが観に行くというから、なんだかそれも悔しくて一緒に行くことにした。


とてもよかった。ストーリーとしては、駆け出しから栄光をつかみ、挫折、そしてクライマックスと、王道の展開ではある。でも俳優の魂のこもった演技、そしてヒット曲オンパレードの音楽に心が掴まれっぱなしで、あっと言う間の2時間だった。


いつの頃からか、特定のアーティストにのめり込むということがなくなった。でもこの映画を観て、あの頃、CDを買って封を切るのももどかしく取り出し、プレイヤーの再生ボタンを押し何度もアルバムを聴きこんだ、高校生の自分が抱いた高揚感が蘇ってきた。しばらく我が家のBGMはQUEEN一色となりそうだ。


ちなみに一番泣けたのは父親とフレディの抱擁シーン。残念ながら父親に感情移入して泣けていることに気づいた瞬間、中年の自分を実感させられたのであった。

子どもへの本やマンガの薦め方

本やマンガを人に薦めるというのはなかなか難しい。ぼくも幼いころ、父親や親戚のおじさんから薦められたり、買ってもらったりした本が、どうにも興味がもてず本棚に眠ったままにしてしまった記憶がある。

でもたとえば、高校に入って下宿先に移るとき父親から譲り受けた「竜馬がゆく」は長らく埃をかぶっていたが、社会人になってなんとなく開いてみるととても面白く、一気に読み終えてしまった。


映画にも同じことがいえるが、そのときの自分の成熟度や精神状態によっても、感じ方が大きく変わるものだ。

とはいえ一旦「つまらなさそう」という印象がついてしまうと、その後なかなか手に取るハードルが高くなるのも事実。だから子どもたちに薦めてみたい作品があっても、どのタイミングで触れさせるか、ということにそれなりに気を遣っている。


でも、これまで息子たちがうまく関心をもったものを振り返ると、まず大前提として、ぼく自身が面白そうに読んでいる、ということがある。

昔子どもの頃読んでいた手塚治虫ちばてつや作品などは、子どもに薦めようと思って本棚に置いたものの、初めは興味を示さなかった。でもぼくが久しぶりに読むとやっぱり面白く夢中になって読んでいると、横から子どもたちも覗き出し、いつしか手に取って争うように読み始めた。そして気に入ったシーンや登場人物などについて話しかけてくる。ぼくと共通の話題をもてたことがとても嬉しそうだ。


そう考えると、子どもだからとか、教育のためにこれを薦めようというのではなく、まずは今の自分でも楽しめるもの、というフィルターをかけて選んでいくことがポイントなんだろう。そしてそれは本やマンガに限らず、子どもに経験させたいことなら何でも同じだという気がする。

子どもたちのいいところ

親子とはいえ、毎日一緒に暮らしているとイライラすることもあるし、ダメなところばかり気になったりもする。でも彼らにはたくさんたくさんいいところがある。今のいいところを書き留めておけば、数年経ったときのいいところと比べてみても面白いかもしれない。

そんなわけで思いつくままに書いてみる。


長男(10歳)

顔がイケメン

とにかく健康体で元気

髪や肌のハリツヤがすごい。生命力にあふれてる感じ

声が大きい

ナイスなハスキーボイス

コツコツがんばれる

ノリがいい。人を楽しませることが好き

知らない子ともすぐに友達になれる人懐っこさがある

まじめ。何事にもきっちりしている

文章やストーリーを考えるのが得意

弟と仲がよい

 

次男(7歳)

顔がかわいい

声がかわいい

すぐに膝に乗ってきたり手をつないできたり甘え上手なところがかわいい

絵を描いたり工作したりが得意で想像力が豊か

誰にでもやさしい

よく周りを見ている。気が利く

誰かに何かを作ってあげたりするのが好き

まじめ。責任感がある

いろんなことへの好奇心が強い

マイペース。あまり周りに流されることがない

お兄ちゃんのことが大好き


そう。とってもいい子たちなのだ。いつもぼくにエネルギーをくれてありがとう。

マーケティングの終焉。

「パンと日用品の店 わざわざ」の平田さんがcakesに書いた文章がとても自分のためになったので備忘録的に。


これからはマーケティングでものを売る時代ではない。一番大事なことは「本当に売りたいものかどうか?」である。という主旨で、以下抜粋。


ものが飽和した時代、作った自分たちが本当に必要なものであると心から訴えることができない商品は消えていく。人々にとって有益であると信じて作られるものであることが大前提になっていく。それはものでもサービスでも同じことで、世の中をよりよくするものであること、必要であること、あなたの生活を助けるものであること、日本のために存続せねばならない等と、ものやサービスにミッションがあることが何よりも重要だ。


ぼくは広告に関わる仕事をしている。もうマスの時代ではないと言われて久しいけれど、まだそれなりにマス広告は効果がある。いや、今でも「数多く売る」ことを考えたら一番効果があると言っていい。なんだけど、基本的にそれらは瞬間的に多くの認知を獲得する役割でしかない。言い換えれば、巨大な投網を投げるようなものだ。多少網の目が粗くても、一定の割合で引っ掛かってくれる人がいる。でもそのやり方は何度も通用しない。そこから先、お客さんがファンになって買い続けてくれるかどうかは、すべてそのプロダクトなりサービスなりが「本当に必要とされているか」にかかっている。必要というのは、何も実用的に役に立つというばかりではない。それを食べることで気持ちがホッとする、それがあることで外に遊びに行きたくなる、それを持っている自分がカッコいいと思える。人によって様々だろう。そこを作り手がコントロールすることは不可能に近い。やれることは、自分が「有益」と信じられるものを作ることだけ。そこを愚直に追い求めたものは、やっぱり喜ばれる。「キャンペーン」なんてやらなくても、自然とSNSに書かれる。そして少しずつ、でも確実に売れ続ける。そんな時代だ。


そう、ここまで書いてあらためて自覚したけれど、我々広告屋の役割は確実に狭まっている。自分自身が「有益である」と信じられることに携わるなら、もう先はあまり長くないのかもしれない。どんなことなら自分が世の中の役に立てるのか、そこを探していきたい。