にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

反抗期?

小3の長男。

最近なんだか会話が噛み合わない。

そして話しかけると、いつもちょっと不機嫌そうだ。

 

ただ、弟と遊んでいるときだけは今まで通り、とても楽しそうにしている。

 

親としては何か悩みがあるのかな、とか考えてしまうけど、きっと聞いたところで「別に何もない」と答えるだけだろう。

 

少し親のことが面倒くさく感じる時期なのかもしれない。でも鬱陶しがられてもかまわないからたくさん会話をしようと思う。彼のことを大切に思っていることだけは、どこかで感じていてほしいものだと思う。

バンコク雑記

今回訪問してみて、タイ人のクリエイティブやアート的なセンスの良さが目についた。

 

ポスターやフリーペーパー、カフェの内装なども、いちいちカッコいいのだ。

欧米のスタイリッシュさに近いけれど、色遣いなど独特な個性ももっている。

 

独自の横文字文化と熱帯の気候が相まって、絶妙な美的感覚が育まれている印象を受けた。

 

日本人にはマネできないけど、日本人には馴染みやすい、そんなタイのおしゃれセンスにすっかり虜になってしまった、今回の訪問だった。

飲み会の出欠

特に気乗りしない飲み会や二次会をどんな理由をつけて欠席するか、非常に頭を悩ませることになる。

 

こう言ったらどう思われるか、いやこんな風に言い訳しようか。やっぱり行っといた方がいいんじゃないだろうか。もともと付き合いも悪く、断ることに慣れているぼくではあるけど、やはり悩むときもある。

 

でもこれ、参加者の立場からするとほとんどどうでもいいことだったりする。

大人数の会になればなるほど、誰かひとり来ようが来まいが、気にする人なんていないのである。一瞬その話題になることもあるかもしれないが、少なくとも次の日にはもうすっかり忘れている。

 

わかっちゃいる。わかっちゃいるのに、なぜあれこれ頭を悩ませてしまうのか。

 

言うはいっときの勇気。言わずに参加するは一晩中の後悔である。

 

健康のありがたみ

あまりにも使い古された言葉だし、これまでの人生何度も思ってきたことであるが、やっぱりそう思う。

おいしいものを食べる、漫画を読む、映画を見る、子供と遊ぶ。何をするにも体に異常がないからこそ心から楽しめる。

ようやくインフルから回復してきた今、人生何十回目かのこの感覚に浸っている。

インフル発症

初めてのインフルエンザ。

と言っても、これまで体調が悪くても医者にかかったことがないから、本当に初かはわからないけれど。

 

とにもかくにも、診断を受けて会社を休んでいるわけだけど、「インフル=休んで当然」という認識が確立したのはいつ頃からだろう。

 

大人の世界では、そんなに昔からではない気がする。

体調が悪くても、我慢して出社することが美徳とされるのは今でもそうだし、ぼくだってそういう感覚は否定できない。

でもインフルは感染するから、患者に出社されると、ひとりの痩せ我慢が多くの社員に感染するリスクを生む。会社にとっては極めて迷惑となる。

つまり、美徳よりも合理性が優先された結果が、今の「インフル=休んで当然」の文化の定着だろう。

 

これは喜ばしいと思える。日本の会社には古い慣習や価値観が、合理性よりも優先されることが山ほどあるからだ。インフルエンザの事例は、古い企業文化が少しずつ変わり始めているよい兆しと考えたい。

命の軽さ

仕事でバンコクを訪れた。

 

明確に身分の違いが存在し、究極の洗練と猥雑さが背中合わせに、時には入り混じる街だ。

 

ものすごい数の人間が様々な目的ですれ違う道路。車と車の、人一人やっと通れるかというようなギリギリの間を3人乗りのバイクがすり抜けて行く。多くがヘルメットすらかぶっていない。乗り合いバスは扉を開けたまま走り、動いてる途中で客が乗り降りしている。どこかの現場へ向かうのか、猛スピードで走るハイラックスの荷台には作業員らしき男性が何人も載っている。

 

バンコクに限らず、東南アジアを訪れていつも感じるのは「人の命の軽さ」だ。

でもそれは、日本の極端なノーリスク社会に慣らされたぼくにとって、否定的な感情ではない。

むしろ「所詮、人は自然の営みの一部」という割り切りを感じ、清々しささえ覚える。

 

それは「自分の身は自分で守る」「守れなかったら自分の責任」という、ある意味非常に大人な社会であり、地球上に生きる動物の一種としては、ごく自然な心構えだと思う。

 

久しぶりの海外だったけれど、やはりたまには異国の空気を吸って、日本の常識にあわせてカスタマイズされた自分の脳みそをリセットすることが大切だと感じた。

 

 

ポケモンGO

相変わらず続けている。

毎日下の息子が「今日新しいポケモンつかまえた?」と聞いてくるのが、ぼくにとっての癒しの瞬間である。

 

そこで新しくつかまえたポケモンを見せられる日は、なおよい。子どもがチヤホヤしてくれるから。

 

ゲームとしてよくできているのは言うまでもないことだけれど、ぼくにとっては子どもとの絆を深めるありがたいツールでもあるのだ。