にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

子どもの成長を感じるとき☆四年生編

これまでも思っていたことではあるけど、今年は特に積極的に嬉しいことや楽しいことを探して書いていきたい。生きてりゃいろいろあるけど、できるだけ前向きで楽しい感じ方をしていきたいと思う。


そんな新年一発目は、長男について。

年が明けたら、姉の家にお年玉をもって遊びにいくのが恒例になっている。そしてうちと姉の子どもたちでひたすらスマブラ三昧の時間を過ごすのも恒例だ。

特に今年は、うちにはないニンテンドーSwitchのスマブラがあるということで、さぞかしワクワクしているだろうと思っていた。

姉の家に到着。すでにスタンバイ万全のテレビ画面を見て、一年生の次男はあいさつもそこそこに早速コントローラーに駆け寄るものの、長男はどうも様子がおかしい。「おやつ食べようかな」なんて言って、テレビから離れた椅子に座ったりしている。どうやら、自分が「ゲームがやりたくてたまらない」と思われていることに反発したいようだ。「スマブラやりたいんでしょ、我慢しなくていいよ」と声をかけると、「いや、本当はやりたくないからどうしようかと思って」なんて生意気なことを言う。


結果を言えば、みんながやっているのを見て我慢できなくなり早々に参加し、その後は二時間半ひたすらやり続けていた。その場では、ぼくは変なやせ我慢をする彼に、なんだかひねくれた性格だな~とちょっとイライラしたのだけど、あとになって考えると、これも成長の証かもしれないと思い直した。自分は一年生の弟と違ってそんな単純じゃない、とアピールしたかったのだろう。スマブラの誘惑にあっけなく陥落はしたけれど、親が「こうでしょ」と決めつけることに抵抗しようという気持ちを一瞬でももったことは悪いことではない気がした。


子どもたちは日々ものすごいスピードで進化している。彼らのことを何でもわかっているような気にならず、できるだけいつもフラットに、そしてあたたかい気持ちをもって見つめていきたい。

2018年を振り返って。そして来年への思い。

今年も終わろうとしている。本当にいろろいろあった一年だった。特に後半は、西武の優勝の喜びも吹き飛んでしまうような、これまでに経験したことがないほどのショックなこと、悲しいことが立て続けに起きた。

そんなあれやこれやをぼんやり振り返っていたときに、ふと思い出したことがあった。

ぼくは今年が「本厄」だということ。

元来占いとかゲン担ぎのたぐいをまったく気にしないで生きてきたので、本厄というのも同い年の友達に言われるまで知らなかった。年初に会ったとき、本厄だからお祓いにいくというその友達に「お祓いにいかないオレと、どっちがよい一年になるか比べてみよう」なんて冗談を言ったことを、どんよりした気持ちとともに思い出した。


地震や台風の災害はもちろん、不幸も自分自身ではなく身内のことだから、ぼくがお祓いに行こうが行くまいが関係なく起きただろう。だからお祓いに行かなかったことを悔やむわけではないけれど、「厄年」といわれる40歳前後というのは、やはり人間にとっていろんな意味で転機になりやすい年頃ということはあるようだ。


これまで自分の人生は幸せだと感じていたし、将来についてもなんとなく楽観していたけれど、やっぱりそれだけではない、いろんな「覚悟」をしておかなければいけないということをはっきりと実感させられた年になった。

来年もおそらくいろいろあるだろう。でもそれも含めて自分の人生だ。精一杯受け止めて、でも必要以上に悲観せず、家族や信頼できる友人たちの支えも借りながら前向きに過ごしていきたい。

子どもが与えてくれるもの

子どもを見ていると心が休まる。特に寝顔や何かを食べているときの様子が好きだ。ほっとする。あと、子どもの肌にふれていると少しずつ元気がわく。子どもと手をつなぐと、ぼくの充電プラグがコンセントにささり、じわっとエネルギーが流れてくるような感覚がある。これはペット、とくにやんちゃ盛りの子犬や子猫にも同じことがいえるかもしれない。


彼らはみんな「生きること」に疑いがない。真剣だし一生懸命だ。その潔い姿が、見ていて気持ちがいいし、彼らの肌のぬくもりを通して、自分にも生命力が宿ってくるような気がする。


大切な人が亡くなっていろんなことを考えてしまうこの頃、子どもたちが近くにいてくれることにこの上なく幸せを感じてしまう。

次男の精神力

1年生の次男は、何をするにも時間がかかる。ご飯を食べるのもそうだし、宿題をやるのもそうだ。本人はまったく気にするそぶりはない。ごはんだってよく噛んで食べているし、宿題は一文字一文字をとても丁寧に書いているから、時間がかかるのは当然だし、決して悪いことじゃない。


奥さんが担任の先生と面談したところ、学校でもそうらしい。なにかテーマを決めて作文を書いたり、工作したりするとき、まず何を書くか・作るかというところにすごく時間がかかる。手を動かしはじめてからも、自分が納得するものができるまで終われない。必然的に授業時間内ではとてもおさまらず、中休みや昼休みを使ってやっているそうだ。先生も急かせるつもりはないが、時間内で終わらせることもひとつのお勉強だよ、と言い聞かせているらしいが、本人は特に気にしていないようだ。


誰に似たか知らないが、素晴らしいと思った。

まわりを気にして、適当に妥協して時間内に帳尻をあわせて終わらせることを学ぶよりも、他のみんなが終わっていても気にせず、自分が納得するものができるまで頑張り続けられる精神力を持ち続ける方が、本人にとっては間違いなくプラスだろう。


幸い担任の先生はベテランだし優しく見守ってくれているようだからありがたい。できる限りそのマイペース力を保ち、磨き続けてほしいと思う。

今年も残りわずか

今年はとにかくいろんなことがあった。まだ終わっていないけど。生きることの意味とか、自分にとって本当に大切なこととか、考えさせられた。仕事のやりがいももちろん大切だけど、それも家族の平穏あってこそだ。それに、非常時がおきたとき、サラリーマンであることのありがたみも身に沁みた。


今年も残り10日間。せめてクリスマスと年の瀬は少し心安らかに過ごせるといいな。

クリスマスの憂鬱

今年もこの季節がやってきた。

子どものころは指折り数えて待ち焦がれたクリスマス。

親になるとなかなか悩ましいことも出てくる。


我が家の長男。サンタさんに何をお願いするの?と聞いても「特に欲しいものがない」と言う。

そう、欲しいものがないのだ。正確に言えば、欲しいものは「たったひとつ」しかないのだ。

それはニンテンドーSwitch。彼はこれが欲しくてたまらない。口には出さないが至るところからにじみ出ている。

だけどあまりゲームを好まないうちの奥さんに気兼ねして言い出せないのだ。

それは当然奥さんもわかっている。近いうちに買ってあげる話はしている。でもクリスマスプレゼントとしてあげるのは「ない」。


なぜなら3万円もするゲーム機だ。それなりに家計の負担である。でも「サンタさんから」のプレゼントとなってしまうと、子どもたちにはそれがわからないままになってしまう。彼らにはきちんと「ありがたがい」気持ちをもってもらいたいのである。だから我が家ではゲーム機はクリスマスにはあげない方針になっている。


かくして長男は「欲しいものがない」ままクリスマスを迎えようとしている。どうしたものやら…

アウラ

NHKスペシャルアウラ 未知のイゾラド 最後のひとり」を観た。

ちょうど同じ時期に再読中だった宮本輝の小説「青が散る」にこんなセリフが出てくる。

「人は、自分の命が一番大切だ。」

アウラは病気で足が不自由なこともあり、今や文明によって生かされている状態だ。最後に残った仲間アウレは死に、もう自分のことばを理解してくれる人はこの世にひとりもいない。文字通り世界でもっとも孤独といってもいい。それでも毎日を淡々と、でも懸命に「命を大切に」生きているように見えた。本来生き物はすべてそのようにできているはずだ。でも現代の人間はときに、社会や周囲の関係に疲れ、命よりも死を選んでしまうことがある。いったい人間は何のために生きているのか、文明とは何か、幸せとは何か。「人間」はわけがわからない。せめて「自分」にとっての幸せとは、というのを見失わないように生きてきたい。