にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

しみこむ言葉を書ける人

毎日うんと流れてくるtwitterのタイムラインの中でも、自分にとって、言葉がすうっとしみこむように受け入れられてしまう人がいる。その代表格は糸井重里さんだ。ほかにも、糸井さんと近い人たちでいえば、古賀さんや田中さん、燃え殻さんなどもそうだ。あとは佐々木俊尚さん、乙武さん、為末さん、ちょっとタイプは違うけれどホリエモンさんも入ってくる。ほかにもたくさんいるが、そんな「受け入れやすい」ことばを発する人たちは、そうでない人と何が違うんだろうか。


たぶん「褒められたい願望」がない、あるいは少ない人たちなんだろうと思う。ぼくみたいな凡人は自分の意見を公にするとき、どうしても「いいこと言ってる」とか「頭がいい」と思われたい気持ちから逃れられない。言ってる内容そのものは本心であっても、発せられるときにそういった「自己顕示欲」の衣をまとってしまう。そんな発言は、たぶん読んだ人からすると説教くさかったり上から目線に思えたりして、「受け入れにくい」ものになってしまうのだと思う。


でも先に上げたような人々は、もちろん天性のセンスという人もいるだろうけど、たぶんほとんどは、もう世間からの賞賛なんて必要としない、それだけの実績と自信がある人なのだろう。または自分にとって世間よりもっと価値のある人からの賞賛を得られる環境にある、ということだってあるかもしれない。


自分がこの先、その境地に辿りつけるとは思えないけれど、自分の思いを、できるだけピュアに、自己顕示欲の衣をまとわせずに書く、そんな練習は続けていきたいと思う。

この感情、、

だれか「付き合ってもない女性と夢でいちゃちゃしてしまった後に本人と会ったときの気まずさ」に名前を付けてください。


分解したら「恥ずかしい」「申し訳ない」「嬉しい」「…好きかも」という感じです。よろしくお願いします。

 

 

 


今日はちょっと風邪気味で調子が悪く、何も書くことが思いつかなかった…

こんな日もあるよね

子どもはどうして

子どもは死に鈍感だ。身近な人の死に直面して悲しむということがない。割とケロッとしている。なんとなく「子どもだから仕方ないね」なんて思うけど、どうして子どもは悲しいと思わないのか。ちょっと考えてみた。


「なぜ悲しくないのか」を考えるには、その前に、大人にとっては「なぜ身近な人の死は悲しいのか」について考える必要がある。


ひとつには「もう二度と会えない」という寂しさ。会えないということは、将来においてその人と新しい思い出を積み重ねていくことができない、ということだ。その人が存在しない未来を思って悲しい気持ちになる。


もう一つは、その人との過去の思い出や、自分にかけてくれた愛情を思い出し、そのときの自分に対する気持ちへのありがたさが心に沁みて泣けてくるのだ。


さらに、本人の死への恐怖や絶望、旅立つものとしての寂しさを思いやることにより、憐みや「かわいそう」という気持ちが高まるということもある。


ほかにもいろいろあるだろうけど、大きくはそんな感じだろうか。

だとしたときに、子どもの特性として、大人と大きく異なる点が思いつく。

それは、子どもは「今」しか見ていないということだ。過去を振り返ったり(もっとも、振り返るほどの蓄積もない)、将来を想像したり(まだ数年しか生きていないのだから想像できるはずもない)ということがない。そうだとしたら、「死」を悲しむ気持ちが生まれないことも当然という気がする。死はいいとか悪いとかというものではなく、ただ「その人がいなくなること」という事実のみを受け入れているのだと思う。


身近な人の死を悼むのは、人としての成熟の証である。でもあまりに悲しみが大きいときは、子どもの感覚が少しうらやましくも感じる。

Youtuber 宣言?

ヒロシさんがyoutuberとして活動しているという記事を読んだ。

キャンプに特化した動画を配信していて、多いものでは数十万回の再生がある。本人は、はじめは自分の記録のためだけにやっていたことが、いつの間にかこれだけの視聴者がついていたそうだ。広告料収入もそれなりに増えているらしい。


ヒロシさん曰く、ヒロシだから成功しているわけではない。誰でもやれる。ただ「始めるかどうか」だけだと言う。

ほんとにそうだと思う。ぼくは3年前にこんな文章を書き続けることを始めた。自分の文才の無さにがっかりし、自己嫌悪に陥りながらもこれまで400日以上書いた。とりあえず「やってみる」経験を積むことができた。新年からはそろそろ次のステップにいくべきかもしれない。


このブログは見られることを前提としていない。次は「見てもらう」ことを目指し、それをモチベーションにしていく段階に進もう。

来年は動画にチャレンジしてみようか。自分の好きなことを発信していけば、そのうち、同じような「好き」の感度をもった人たちが見てくれるかもしれない。キャンプか、登山か、野球か。少しワクワクしてきた。

無理しない

パートナーは明らかに自分よりも大変な思いをしている。そのことを考えたら、自分の苦労なんて大したことはない。それはそうなんだけど、だからといって自分がしんどくないわけじゃない。ふう、とか、はあ~疲れたとか、たまには口に出したい。ぼくが疲れ果ててパートナーを支えられなくなるのはもっとまずい。誰かにちょっと慰めてもらえるだけで、またがんばれる。自分なりにうまく気分転換をしていこう。

別れ

人にはいろんな最期がある。ほんとうに何の苦しみもなく安らかに永眠できる人はごくわずかだろう。大半は辛かったり苦しかったりするのだと思う。たとえそうだったとしても、その人の人生が「辛い生涯だった」ということにはならない。きっと数えきれないくらい、心がときめいたり、わくわくしたり、幸せだなあと思ったり、ということがあったはずだ。悲しい別れを経験すると、残された方はそのことで頭がいっぱいになる。寂しさや後悔で胸が張り裂けそうになる。でも亡くなった方は、きっと良い思い出もたくさんもって旅立っているのだと思う。最期だけを見つめ続けているとあまりにも辛いけれど、その人が楽しく過ごした人生にも思いを馳せるとちょっと心が軽くなる。


これまで本当にありがとうございました。お疲れさまでした。

悪い悪口と良い悪口

誰かの悪口を言う人はちょっと苦手だ。職場の飲み会なんかで、そんな会話をしてくる人とはできるだけ近くに座らないようにしている。でもよく考えると、仲の良い友人だって、会えば職場の人への文句を言ってたりもする。でもなんとなく彼らの悪口は受け入れられる。もっと言えば「悪口」という印象すらない。せいぜい「グチ」程度の感覚である。嫌な気分になる悪口と、許せる悪口。その差はなんだろうと考えてみた。


ひとつは、ぼくの知らない人についてかどうか。共通の知人についての悪口と、ぼくが知らない人についてのものとでは、その意味合いは大きく異なる。前者の場合、それはどうしても「ぼくと(悪口を言われている)知人」の関係にまで影響を与える。大げさに言えば、ぼくにも、その知人に対して悪い印象を持ってもらいたい、という意図が自然と存在する。その感じがどうも苦手なのだ。

ぼくの信頼する友人たちは「共通の知人」についての悪口は決して言わない。

 

一方で知らない人についてであれば、軽く聞き流せる。「お前も大変だな~」なんて言っておしまいである。その差は大きい。


もう一つ、その悪口(あるいはグチ)が「フェア」に思えるかどうか。素直に「そりゃひどい」と思える内容のものと、「そこまで言うほどのことかな」と疑問に思うものがある。「人」の中傷ではなく、あくまで「行為」を責めている範囲であれば、聞いていてもそれほど嫌な印象はもたない。友人のグチはそのレベルにとどまっていると感じる。そういうことだと思う。


ぼくも「悪い悪口」を言って友人に嫌がられないように気をつけたい。