にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

森達也さんの「A3」を読みながら感じていること

森達也さんがnoteで「A3」を無料公開している。まだ上巻の途中まで読んだだけだが、なんだか心がざわざわしている。


作品の中で森さんは、麻原彰晃には「訴訟能力がなかった」可能性について、そして精神鑑定の必要性について繰り返し主張している。それがなされず公正さを欠いたまま裁判を進める司法判断について、そして「オウム憎し」の感情にまかせて、不可解な公判の進行を容認どころか望んでいるようにさえ思えるマスコミと世論に対して、疑問を唱えている。この事件を境に、日本の社会が少しずつおかしくなっていったと訴える。


※森さんはあくまでも「訴訟能力」について言っているのであり、麻原の事件発生時の責任能力に疑問を呈しているわけではない。事実を明らかにするためにも、明らかに精神的に訴訟能力を欠いている麻原をきちんと専門医が鑑定し、適切な治療を施したうえで裁判を進めるべきだったと主張している。

 

ぼくはこれまでオウム事件と一連の裁判については、まさにマスコミで流されている情報をなんとなく眺めていた程度で、ここに書かれてある「異常な」状況で裁判が進行していたとはまったく知らなかった。完全に当時の世論の一部を形成していた。今でも途中まで読んだくらいで知ったふりをするつもりはないけれど、衝撃を受けているのは確かだ。


刊行から10年以上経った今もなお、この魂のこもった力作を無料公開してまで、何が起きたかを知ってほしい、そして考えてほしいと願う森さんの気持ちを思うと、無料で読んでいることがだんだんと後ろめたくなってくる。でも思うだけでまだ購入には至っていない自分のことが情けなくなる。そんな気持ちを繰り返しながら読み進めている。


ところで、ここに書かれている「世論」への違和感について、つい最近同じような感覚をもった気がした。そうそう、ゴーンさんの事件だ。事件といってもまだ容疑段階、しかも本人は全面的に無罪を主張している現状では、「事件」ですらない可能性もある。しかし、である。少なくともテレビや新聞から流れてくる情報を読む限りは、もうゴーンさんは稀代の悪者、カネの亡者として扱われている。


仮に容疑が事実であったとしても、直接の被害者がいるわけでも、政治家が絡む汚職事件でもない。それでこの検察の動きは、法律や政治に詳しくないぼくでも不自然さを感じる。しかし日本のマスコミはそこに疑問を呈する気配がない。完全に検察に「乗っかって」いる。そして世論も「ゴーン憎し」で出来上がっているように感じる。会社で隣の人に「ゴーンさんが無罪を主張しているみたいだけど、面白くなってきたね」と話しかけると、彼は「4回も逮捕されといて、終わってますよね~」と言った。


ぼくだってマスコミから出てくる情報しか知らないし、本当はすべての容疑がクロなのかもしれない。でもここで言いたいのは、これから明らかになる事実がどうであれ、何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される、という「推定無罪」の原則が、おおっぴらに、あまりにも堂々と蔑ろにされすぎているのではないか、という疑問である。そこに異を唱えるメディアがあまりにも少ないことへの違和感だ。


そして森さんが「オウム事件以降、日本社会が変わっていった」と書いていたことを思い出し、ちょっと暗い気持ちで納得してしまう。