にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

子どもに逃げ道を与えられる親になるために

最近の次男GWが明けたころから、幼稚園に行くのが憂鬱そうなそぶりを見せるようになりました。

 

原因はよくわかりません。

本人に聞いても、別に嫌じゃないと答えるのですが、毎朝出発前になると明らかに元気がなくなります。そして毎日のように幼稚園で泣いているそうなのです。

 

帰ってくるころには元気になっていて、そのときは奥さんも安心するらしいのですが、その後先生から電話がきて、幼稚園で泣いたことを伝えられる、という繰り返し。

 

理由がわからないので、どう対処したものか困っています。

 

ちょっと話は飛躍しますが、いじめで子どもが自殺した、というニュースを目にするたび、「死ぬくらいなら逃げ出せばいい」と思うし、「子どもがSOSを出して来たら、迷わず逃げる道を与えてやりたい」とも思います。

 

でも現実に立ちかえると、そんなのは頭でっかちの理想論でしかない、とつくづく痛感します。

 

今回のように子どもがぐずると、ぼくら夫婦の中では「5月病かな」「連休中楽しいことばかりだったから、一時的に行きたくなくなったのかな」となります。

 

実際は、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

いずれにしても、今のところ「休ませよう」とはなっていません。

明確に「行きたくない」とは言わないし、帰ってくる頃には元気になっているので、そこまで深刻じゃない、という判断です。

 

同時に「そのくらいで簡単に休ませていたら、今後ずっと行かないと言い出したらどうしよう」という不安もあります。

 

でも、ふと考えます。

 

「深刻かどうか」は本人にしか判断できないこと。そもそも親が行かせる、行かせないの線引きをするのはとても危険なんじゃないか。唯一の判断軸は、本人が「行きたいかどうか」であるべきなんじゃないか、ということ。

 

そしてもう一つ、親が線引きしている限り、子どもはどんなに悩みが増していっても「行きたくない」とは言えないんじゃないか。

そして少しずつ子どもは追い詰められていくのかもしれない。

 

幸いぼく自身は、特に大きな悩みもなく子ども時代を過ごしました。日曜日の夜や、夏休み明けに「行きたくないな~」「だるいな~」というのはしょっちゅうでしたが、学校が嫌い、というのではありませんでした。

 

だからといって、子どもが同じとは限らない、というのは肝に銘じておきたい。

 

逃げることができず、我慢して我慢して最悪の道を選んでしまうことを想像したら、ちょっとしたことですぐ休みたがる、くらいになってくれた方がよほどマシです。

 

ただし、子どもに「休んでいいよ」と言うのは簡単でも、実際に日中に世話をするのは奥さん。彼女の同意は欠かせません。

 

子どもたちにとって「逃げることを許してくれる親」と思ってもらうために、まずは夫婦で腹をわって話し合うところからはじめていきたいと思います。

ウォーキング・デッドがつまらない

自分の好みが変わったのか、それとも相手が変わったのか・・・

あんなに愛してやまなかったウォーキング・デッドへの想いが、薄れつつあります。

 

その兆候はシーズン6の後半あたりから。なんだかやたらに恐怖ばかり煽る展開にやや食傷気味でした。

 

そしてシーズン7の初回。あまりにも惨いシーン。一度は完全に心が離れました。

しかし今後の見ごたえある復讐劇の布石かもしれないそのためにはあのシーンも必要だったのかもしれない。

そう思い直し観つづけていたのに、繰り広げられるのは退屈な小話ばかり。最後に少しだけ盛り上げてシーズン7は終了してしまいました。

 

 

前にこのシリーズについて激賞するブログを書いたとき、ぼくは「ショックと安堵のさじ加減が絶妙で、クセになる」と記しています。

 

その流れで語るとすれば、このシーズン7は、「ショック」の面ばかりどんどん過激になり、「安堵感」がほとんどない。たまにあったとしても、その描き方が極めて雑です。

だから疲れてくるのです。

 

そしてこの手の作品は設定が現実離れしているからこそ、細かいところにリアリティが欲しいところ。それなのに、目の前に敵がいるのにグズグズして撃たないとか、反対に、どう考えても絶体絶命のところを適当な乱闘で切り抜けてしまうとか。すっかり三流ドラマな感じなのです。

 

 

世の中的にどう評価されているのかはわかりませんが、ぼくの中ではもう「お気に入り」から外れつつあります。スリルやストーリーの面白さ、ディテールのリアリティでは「ゲームオブスローンズ」「ナルコス」「ホームランド」などの圧勝です。

 

あんなに好きだったドラマが、このままつまらなくなってしまうのは寂しいですが。

う~ん、とりあえずニーガンがいなくなるまでは、きっとこんな調子なんでしょうね。残念です。

「ゲームやり過ぎ」について自分なりの答え(のようなもの)

こんにちは

 

うちの8歳と5歳の息子は、二人ともゲームが大好き。奥さんが1週間で5時間まで、と決めているので、いつもゲーム時間が回復する水曜日を楽しみにしています。

 

ぼく自身も、5時間制には賛成です。

でもなぜ「ゲームのやり過ぎ」がよくないと思うのか、自分の中で明確な理屈がなく、ちょっとモヤモヤしていました。

 

ゲームだけではなく、テレビもそうです。あまり長時間見続けていると止めたくなる。でも一方で、お絵かきに熱中したり、本やマンガを読む時間に制限をつけようという気にはならない。その差はなんだろう、と

 

また子どもたちは長時間のドライブを嫌がります。退屈だからです。なのですが、ぼくはそこでDVDを見せたりゲームをさせたり、という気にあまりなれません。それもなぜなのか。単に自分の子ども時代がそうだったから、というだけではないと思ってはいるものの、語るべき言葉が思いつかない状態でした。

 

ちょっとわかった気がしたのは、糸井重里さんの5/7付「今日のダーリン」を読んだとき。

 


~以下抜粋~

ポイントは、なにかをしている「間」の時間です。
 大人って、いろんなことをしているようですが、
 「間」の時間というものが山ほどあるんですよね。
 旅をしていれば、よくわかると思います。
 実は、なにをしている時間よりも、
 移動している時間のほうが多かったりします。
 そこが、「ひとり」であるというのが大事なんです。
 その、「間」の時間と「ひとり」の組み合わせこそが、
 日頃忙しくしているうちに紛失してしまったなにかです。

 


 

自分がなんとなくこだわっているのも、この「間」なんじゃないか、という気がしました。

いやもちろん、自分が糸井さんと同じレベルでものを考えているわけではありません。

ですが、車の後部座席に座って、景色を見るともなく眺めながらボーっとする時間には、いろんなことを考えるはずです。とりとめもなく。自分のアタマの中でぐるぐると。

子どものころに、たまにそんな時間があってもいいんじゃないかというのが、自分の考えていることかもしれない。そう思ったのです。

 

こから「ゲームのやり過ぎ」にも少し答えが見えました。

ゲームやテレビには、自分のアタマで考える「余白」が比較的少ない。あくまでも誰かが作った枠の中で楽しむものだからです。ぼくもゲームは好きだから否定するわけではないけれど、やはり彼らには「アタマを使って考えること」をたくさん経験してほしい。そんな願いがあります。

 

子どもの思考を強制することはできません。でも環境は整えてあげたい。悔いなく人生を送るには「自分で考え、判断し、決断するチカラ」が欠かせないと思うから。

社会に出るということ

こんにちは

 

今日のほぼ日にあがっていたコンテンツ、「青春って、もう終わっちゃうのかな?」。

これから社会人になろうというインターンのマツザキさんが、漠然といだく不安や寂しさについて糸井さんに相談してみるという対談です。

 

内容はとても面白かったので読んでいただくとして、彼の胸のうちが、自分の大学生のころとずいぶん違うなあということに、意外な驚きがありました。

 

 

そもそもぼくは、早く社会に出たくて仕方なかった。仕送りをもらわずバイトと奨学金で大学生活を送るそこそこの貧乏学生だったので、とにかく自立できるだけの給料をもらえる仕事がしたかったのです。

そうすれば外食だってできる、ほしい服も買える、彼女と旅行にも行ける。なんて自由なんだろう、と。

 

 

そんな低い憧れからのスタートなのが幸いしてか、これまでの社会人生活は割と楽しくやっています。ある程度好きなことをして、自分の納得する道を歩いてきていると思えます。

 

 

ところで、子どもへの教育方針として目にする中には、大きく二通りの傾向があるように思います。

 

一つは、「自分のようになってほしくないから」というパターン。そして反対に「自分がやってきてよかったことを伝えたい」というパターン。

もちろん一人の親の中にでも、どちらもあるものだと思いますが、ぼくは明らかに後者の割合が多いです。

 

 

そもそも子どもに親の考えを押し付けるのはよくないというのはありつつ・・・でも自分の人生を肯定できることは、幸せなことでもあります。

 

もしぼくがいつか息子に、社会に出る不安を打ち明けられたとしたら伝えたいこと。「誰の目も気にせず、限りない自由を好きなように楽しんでほしい」ということでしょうか。

さっそく反省...

昨日、自分の欠点として「すぐ妥協してしまう」と書いたばかりだけど、またやってしまった...


期日も押し迫ったプレゼンの打ち合わせ。みんなGWは休めるように、なんとか今週中に仕上げてしまいたい。


打ち合わせも佳境に入り、そろそろまとめに入ろうという頃になっても、どうも自分の中でしっくりこない。


競合プレゼンだけど、うちの会社の「勝ちどころ」を明確にできていない気がする。


頭の中にはボンヤリと「こうした方がいい」という案がある。


でも、このタイミングでこれを言い出すと、場が混乱に陥ることは目に見えている。

形にしようとすると、みんなに結構な負担をかけてしまう。


結果、言えなかった。


これが自分の最大の欠点である。

まわりを巻き込むことに躊躇してしまう。

まあいいか、と自分一人でもなんとかなる程度の小手先のことで済ませてしまう。


これでは絶対にいいものは作れないし、大きなことを成し遂げられない。


変えていかなければ。

もっと結果に責任感をもつ。

ギリギリまで企画をよくするために粘る。

そのために周りに疎まれることを怖がらない。

さらに言えば、もっと早い段階から頭を「本気モード」で働かせ、ギリギリになる前から質の高い案を出せるようになりたい。



と、これまでも何度反省したことか...

頭の中で反省だけじゃなく、こうして書いたことで、半歩くらい進歩したと思おう



次こそ...

読書感想文「嫌われる勇気」

自分の欠点はたくさんある。


自分に甘い、すぐサボる、面倒くさがり。だから仕事でもストイックに妥協せず取り組む、ということができない。ついこんなもんでいいか、となる。


まだある。初対面の相手が苦手。人と仲良くなるには時間がかかる。そもそも仲良くなれる人が少ない。


でも、そんな自分のことが嫌いではない。いや、もっとはっきり言おう。ぼくは自分が好きである。

最初に挙げた欠点の倍くらい、自分のいいところが思いついてしまうのだ。


だいたいみんなそんなもんだと思っていた。

誰だって欠点はそれほど気にせず、いいところを自己満足して生きていると。


でもこの「嫌われる勇気」がベストセラーになるということは、もしかすると、そうではないのかもしれない。

「自分が好き」と思うことに、それなりの努力を要する人も多いのかもしれない。


どちらにしても、人生を幸せに送るためには、「自分を肯定する」ことが大きなカギになるように感じた。


そしてもうひとつ、「他人は他人」と割り切り、あまりその目を気にすることなく生きる。これまたぼくのモットー...というほど立派なものではなく、単なる生まれ持った性分なのだが、本にもある通り、人間関係をずいぶん楽にしてくれると実感している。


この本を読んで、目からウロコ、というよりは、「うんうん、そうだよな」という納得感が強かった自分は、幸運なのかもしれない。


自分を肯定できるように愛情を注いでくれた両親に感謝したい。

次は自分が子どもたちを目一杯愛してやりたい。


そんなことをあらためて思わせてくれた本だった。

ザ・ベスト・オブ「プロフェッショナル」

あまり感じたことない種類の感動だった。

 

昨日放送のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」。

知床に生きる猟師、久保俊治。

 

独りで大自然に潜むエゾシカヒグマと対峙し続けている。

集団で追い込み仕留める「狩り」は、動物に対してフェアじゃない気がすると言う。

善悪の問題ではなく、それが自分の方針だと言う。

 

動物の生命を狙うことに、自分の生命を賭ける。

 

そんな彼が、エゾシカを撃ち殺し、解体するシーンがある。

腹を裂き、心臓を取り出す。皮を剥ぎ、部位ごとに切り分ける。

その映像に残酷さはかけらも見当たらない。

それは、あくまでも大自然のひとつの営みとして存在しているからだ。

もし大地の神というものがいるなら、それは神に赦された行為だと思った。

 

そして、ライオンでもヒグマでもなく、ひとりの人間「赦された存在」として生きている姿に、胸の奥が震えるような感動を憶えた。

 

ただ「生きる」、それだけのために仕事をする。「自分」だけが存在する世界。

彼にとっては幸せも不幸もないだろう。それは、どこまでいっても他の誰かを物差しにしているにすぎないことだと気づかされた。

 

まさに「人間のプロフェッショナル」。

彼のようには生きられない。でもこの世界に彼のような人間が存在する事実に、生きていく勇気を与えられた気がした。