にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

「好き」という気持ち

以前、付き合っていた子に「『ほんとに好き』っていう気持ちが伝わってこない」と言われたことがある。

 

「ほんとに好きか?」と問われると、そのとき正直に言って、よくわからなくなった。

「好き」と「ほんとに好き」の差はどこにあるんだろう?

 

会っていないときでも彼女のことを考えるし、一緒にいたら楽しい。ずっと側にいたいと思う。だから「好き」なんだろうと思うけど、そんなことをいくら口で説明しても、彼女は納得してくれなかった。

 

ぼくは基本的に他人に対しては「嫌われたくない」という気持ちが先にくる。好意をもっている相手にはなおさらだ。深く踏み込んで「鬱陶しい」「面倒くさい人」と思われることがなにより嫌だ。だから彼女に対しても、一緒にいたいという気持ちと、負担に思われたくない気持ちがいつもせめぎ合っていた。

そんなスタンスが彼女にとっては物足りなかったんだと、今では思う。

 

「ほんとに好き」なら、理性よりも先にもっと気持ちを前面に出してほしい、そう思っていたのかもしれない。

でもぼくは彼女のことが大切に感じれば感じるほど、「嫌われたくない」気持ちが強くなるから、そこが噛み合うことはない。

 

「好き」ってなんだろう。

やっぱりよくわからない。

東京で見る広告に思うこと

東京から地方に転勤してもうすぐ4年になる。

 

今のところ満足している。

とにもかくにも通勤が楽だし、自分の収入では東京だと考えられない広さの戸建に住んで、休みの日にはキャンプや登山で子どもたちと遊びまくっている。

この先のことはわからないけど、現時点では東京から引っ越してよかった。

 

でも決して東京が嫌いなわけではなく、とても好きな街だ。

たまに出張で来るのを楽しみにしている。

 

最近東京に来ると思うことがある。

「広告」に溢れすぎていると感じる。

ふだん地方に住んでいるから、そのギャップでなおさらそう感じるというのもあるだろう。

でもそれだけではないように思う。

 

15年前に東京に出てきた時、有名タレントが出て、カッコいいデザインで、面白い場所に掲出されている広告にワクワクしたことを覚えている。

 

今ではそのほとんどが「ウソくさく」「うるさく」感じてしまう。

 

言うまでもなく、現代はみんなスマホに目を落とし、必要な情報はSNSで検索だ。

日々膨大な情報に触れる中で、企業からの一方的なメッセージはなかなか届かないし響かない。

 

だからこそ、企業はなおさら声を大きくして、叫び声をあげて、なんとか振り向いてもらおうとしているかのように見える。

地方から出てくると、それが過剰な演出、過剰なボリュームに感じてしまう。

 

もちろん、広告をやるからには少しでも目立とうとするのは当然のことだ。でも今の時代、なんとなく「こうじゃない」感がある。

 

どうすればよいかの答えが簡単に出てくるわけじゃないけれど、一回東京から離れたことで、同じ景色が違って見える。その感覚は大事にしたいなと思った。

 

 

人との距離感

後輩に、なかなか仕事で評価されないヤツがいる。決して悪い人間ではない。仕事も一生懸命やるし、ミスが多いわけでもない。でもみんなからなんとなく要領を得ないタイプとして認識されている。

 

彼を観察していて思うのは、相手との「距離感」を測る能力にやや欠けているのかも、ということだ。

 

相手が彼に感じている距離感と、彼が相手に感じている距離感にギャップがあるのだ。

 

まだ気を許す関係でもないのに、ちょっと馴れ馴れしく話しかけたり、ジョークを言ったりして眉をひそめられている。

それはもっと近い関係ならきっと気にも留めないことなんだろう。

 

とても微妙なことではあるし、教えられて改善することでもない。(もちろんぼくだって周りからどう思われてるかわからない)

 

このへんは生まれ持ったセンスでしかないのだろうか。できれば自分の子どもたちには身につけてほしいセンスである。

病院の待合室

待つのが嫌いだ。

病院のロビーは混んでいて、ほんとにいつもウンザリさせられる。今日なんて、初めて行った皮膚科が人であふれていて、すぐに引き返してきた。

でも不思議なもので、次に行ってみた皮膚科がガラガラですぐに受診できたりすると、なんだか「大丈夫か?」という気になってくる。

 

思えば飲食店なんかでもそうだ。

初めての店で、昼時に空いてたりすると不安になる。でも混んでいる店は嫌だ。並ぶなんてもってのほかである。

 

こんなときにどっちを取るかで性格が出る。

ぼくは質に不安があっても待たない選択肢をとるが、うちの奥さんなんかは並ぶ方かもしれない。

 

これで、ふだんは周りからぼくは気が長く、奥さんは短気と思われているから面白い。

人の心は複雑である。

子育ては2回目の人生を生きること

3年生の長男が、二重跳びの練習をしていた。
まだ連続で最高4回しかできたことがないというので、お父さんが見本を見せてやろうとやってみた。
小学生の頃は体力が続く限り続けられた記憶がある。まあ何十年ぶりとはいえ、息子に感心してもらうくらいの回数は跳べるだろう。

 

ところが、40歳のカラダは想像以上に重かった。


何回やっても2回目で引っ掛かる。おかしい、こんなはずはないとムキになってくる。長男と交互にやってみる。5回までいった。ちょっと嬉しい。でもまだまだ。長男も5回まで跳べた。最高記録だと喜んでいる。だんだんアキレス腱のあたりが痛くなってきた。準備体操くらいしてからやっておけばよかった。でももう遅い。もうちょとやればコツを思い出すはずだ。そうこうするうちに11回まで跳べた。ちょっと物足りないが、最初よりは回数が伸びたことが嬉しかった。そしてもう体力の限界である。

 

そんなぼくを尻目に、長男は20回を超えた。すごくイキイキした表情をしている。

 

できなかったことが、頑張ってちょっとできるようになる。
大人になるとなかなか体験できないけれど、これは本当にうれしい。


子育てをしていると、子どものそういう場面に何度も立ち会うことができる。たまにそこ自分も張り合ってやってみるのがまた楽しい。
一度は通ってきたはずの道を、また新たな気持ちで辿ることができるのだ。
これはほんとにスペシャルな体験だと思う。

 

ただし今日はとんでもない筋肉痛に襲われている。何にでも代償はつきものである…

裁量労働制について考える

ぼくは今の会社では裁量労働制のもと働いている。

制度としては、一日の労働時間が30分であろうが24時間であろうが賃金は変わらない。
いつ出社していつ帰っても(建前上は)自由だ。

 

実際には上司の考え方ひとつで、朝は9:30出社が義務付けられたりする部署もあったり、社内的に徹底されているとはいいがたいが、個人的には好ましい制度と思っている。


裁量労働制が導入される前は、基本給が低い分、時間外手当もついていた。
でも企画職だから、デスクに座っている時間が長ければその分成果が比例するわけではない。

たまには気分転換に本屋に行ったり、映画観たりすることだってある。その方が頭がフレッシュになってその後の作業がはかどることもあるけれど、その間「時給」が発生しているとなると、なんだかサボって悪いことをしている気分になってしまう。周りの目だって気になる。
その点、裁量労働制なら自由だ。


また、家族と過ごす時間も融通できる。ある程度自分で進捗を管理しているから、平日でも子どもの授業参観にも行きやすかったりするのだ。


とまあ、たまたま自分にとってはメリットの方が大きい裁量労働制だけれど、もちろん誰にでも当てはまるわけではないだろう。
まず大前提となるのは、会社としてルールが徹底されることだ。
うちの会社でも一部がそうなっているように、上司の考え方ひとつで会社のルールが覆されるようなことがあると、社員としてはたまらない。

忙しい時期は頑張り、休めるときは休む。そのバランスをとることで総労働時間を減らせることが裁量労働制の良さだと思うけど、ヒマでもデスクに張りついていることを強いられてしまうと何にもならない。
かなり強力に会社全体で推し進めないと、悲劇を招くことは目に見えている。

 

とはいえ、制度としては(職種によっては)検討に値する価値があるものだと思う。
国会ではデータの改竄などが連日ニュースとなり、政府や官僚のお粗末かつ不誠実な対応で、なんだか「裁量労働制」がネガティブワードとしてイメージを確立しつつあるけれど、そのせいでポシャってしまうとちょっと勿体ない気がしている。

すきま時間

いそがしいのとヒマなのと、ぼくはどちらもあまり好きではない。


朝から仕事に追われて気が付いたらもう夜、なんて日も少しくらいはいいけど、3日も続くと「ああたまには何もすることなくヒマして過ごしたい」と思う。

 

けどそのヒマな日が3日も続くと、「ああオレはこの会社に必要とされてないのかも」なんて思えてくる。時間だけはあるものだからいろんなことを考えてしまうけれど、そんなときに考える内容はたいていロクでもないことだ。

 

ほぼ日の「今日のダーリン」で糸井さんが言っているように、忙しい中にも多少の「スキマ時間」がある、くらいがちょうどいいのだろう。


ちょっと仕事を抜けてマッサージに行くとか、本屋で立ち読みするとか、たまには早く帰って海外ドラマ見るとか。ちょいちょい息抜きすることで忙しくても頑張れるし、そんなスキマ時間はものすごく充実した時間に感じられる。

 

世の中にはずっと忙しいことが平気な人も(もちろんヒマなことが平気な人も)いるのだろうし、仕事と遊びの境界がないと感じている人もいるだろう。


でもぼくはそういう感じではなさそう。自分の趣味に近い楽しい仕事だって、ずっと続くと疲れてしまう。やはりどこまでいっても「仕事は仕事」なのだ。

 

自分のタイプを理解して、うまくスキマ時間を作れる、というのも仕事の才能のひとつなんだろうなと最近思う。