にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

twitterとのつき合い方を変えてみた

twitterのフォロー数を少し整理した。情報収集の場として、自分の主張と合う合わないに関わらずできるだけいろんな立場の人をフォローしていたのだけど、最近はあちらこちらで言葉での殴り合いや乱闘が勃発しているのを目撃し、だいぶ疲れてしまった。なので、とりあえず「好戦的」な人のフォローを軒並み外してみた。結果、とても平和だ。


やっぱり自分にとっては、人とのコミュニケーションにおいて大切にしたいのは、内容よりもまず言い方なんだなと実感した。どんなにいいことを言っていても、相手を踏み台にしたり罵ったりしながら意見を主張する人とは、できるだけ距離を置きたい。これまでは、できるだけ貴重な視点や考え方を見逃したくないと、大げさにいえば強迫観念のようなものに駆られてタイムラインを見つめ続けていた時期もあった。


でも、もうそういうのはいいや。


これからは自分が「かくありたい」と思える人だけを追っていきたい。それは、発言内容が参考になるのはもちろんだけど、その前提として他者への敬意や配慮、やさしさが感じられる人だ。ひとことで言えば、「品がある人」ということになるだろうか。


またそのときの気分や置かれた状況によって考えが変わることもあるかもしれないが、とりあえず現在の心境を書き留めておこうと思った。

オトコの自信

今日は少し書き始めたことがあったけど、まったく筆が乗らず、なんどか書き直したあげく結局やめることにした。ぜんぜん書くことが思いつかないのだけど、ひとついいことがあった。「大盛りごはん」を完食できたこと。ランチで入った店で、ライス大盛りを頼んだら、まさにマンガみたいな山盛で出てきて仰天。同僚たちは当然ぼくが食べきれないだろうと思っていたみたいだけど、かくいう自分も無理だと思ったけど、意外にすんなり腹におさまってしまった。最近はいろいろ体調の問題もあって炭水化物を控えめに生活していて、大好きなお米も食べ過ぎないようにして、それにも慣れてきていたから、まさか食べきれると思わなかった。ちょっと嬉しかった。すごくくだらないのはわかっているが、自分にとっては「たくさん食べる」ってなんだか少しオトコの勲章みたいな感覚がある。そして体調を気にして控えめにしていた米を文字通り腹いっぱい食べたことで、なんだかスッキリした。健康は大切だけど、たまにはリミッターを外すのもいい。

関心領域が変わってきた

もうすぐ社会人になって丸19年が経つ。途中ワーホリに行ったり日雇い労働者になったりとフラフラした時期もあるけど、大半は広告業界で過ごしてきた。何か目覚ましい実績をあげたり賞をとったりとは無縁のまま中年を迎えてしまったが、自分としては興味のある仕事に携わり、職場に大きなストレスもなく、いまのところ家族も養えているので、おおむね満足している。


なんだけど、このところ急激に「広告的」なことから関心が薄れつつある自分がいる。これまでマーケティングブランディング、クリエイティブ、そんなことに関わる書籍や記事を求めて読んでいたし、セミナーやワークショップにも参加した。つまり「いかに仕事のレベルをあげるか」ということに関心があった。でも最近はそれがなくなりつつある。もちろん自分のレベルに満足しているとかそういうことではないけど、関心の対象が「ノウハウ」よりも「思想」寄りになってきていると感じる。気がつけば、自分にとっての生きがいとは、死ぬってどういうことか、そんなヒントになりそうな書籍ばかり読んでいる。主張の強い人よりも、他人を攻撃せず、自分とまわりの人を幸福にするために考え活動している人のことばが沁みる。


でもぼくが所属する広告・マーケティング業界においても、これからはそんな視点が求められてくる気がする。物欲はある程度満たされ、核家族化が進んだり未婚者の割合が増え、でも人生は90年・100年とどんどん長くなっていく。だとすると、もっと幸せになりたい、もっと生きがいを感じたい、そんな心の根っこから湧き出てくる気持ちにこたえる商品やメッセージしか届かなくなるのではないだろうか。


自分の中でもまだあまりまとまらないが、このことは考え続けていきたい。

It's a beautiful day.

今日よかったこと。会社に行くとき子どもたちが窓から手をふってくれた。数少ない親友の一人が、ちょっと笑えるLINEをくれた。お昼に食べた定食が値段のわりにおいしかった。得意先での打合せにて、多少存在意義を示すことができた(ような気がする)。図書館で予約していた五木寛之親鸞が届いた。読むのが楽しみだ。新年のあいさつに来た取引先の人が、豪華なお菓子つめあわせをもってきてくれて残業の間食が充実した。ほんとはまだまだあった気がする。笑って過ごせる日はありがたい。

友人のありがたみ

気の合う相手とのメッセージのやり取りは、気持ちをおだやかにしてくれる。ぼくはあまり友達が多くない方だと思う。ぼくの「友達」の定義は、自分から連絡をとって二人でも会いたくなる相手だ。それに当てはまるのは、男女あわせて4~5人程度かもしれない。そんな一人と、他愛もない年始のあいさつのやりとりをした。久しぶりに連絡してみたのだけど、まいにち会話をしているかのような、自然ですんなりなじむ返信をくれる。お互いに「おまえのことは分かってるよ」という、絶対に口には出さないけど、確実に存在する気持ちをまとったことばが交わされるのが心地よい。最近はtwiterのタイムライン上でも激しい非難の応酬が一層目立つようになり、なんだか疲れるなあと感じていたから、お互いを思いやることができる相手とのコミュニケーションがなおさら貴重に感じた。

子どもの成長を感じるとき☆四年生編

これまでも思っていたことではあるけど、今年は特に積極的に嬉しいことや楽しいことを探して書いていきたい。生きてりゃいろいろあるけど、できるだけ前向きで楽しい感じ方をしていきたいと思う。


そんな新年一発目は、長男について。

年が明けたら、姉の家にお年玉をもって遊びにいくのが恒例になっている。そしてうちと姉の子どもたちでひたすらスマブラ三昧の時間を過ごすのも恒例だ。

特に今年は、うちにはないニンテンドーSwitchのスマブラがあるということで、さぞかしワクワクしているだろうと思っていた。

姉の家に到着。すでにスタンバイ万全のテレビ画面を見て、一年生の次男はあいさつもそこそこに早速コントローラーに駆け寄るものの、長男はどうも様子がおかしい。「おやつ食べようかな」なんて言って、テレビから離れた椅子に座ったりしている。どうやら、自分が「ゲームがやりたくてたまらない」と思われていることに反発したいようだ。「スマブラやりたいんでしょ、我慢しなくていいよ」と声をかけると、「いや、本当はやりたくないからどうしようかと思って」なんて生意気なことを言う。


結果を言えば、みんながやっているのを見て我慢できなくなり早々に参加し、その後は二時間半ひたすらやり続けていた。その場では、ぼくは変なやせ我慢をする彼に、なんだかひねくれた性格だな~とちょっとイライラしたのだけど、あとになって考えると、これも成長の証かもしれないと思い直した。自分は一年生の弟と違ってそんな単純じゃない、とアピールしたかったのだろう。スマブラの誘惑にあっけなく陥落はしたけれど、親が「こうでしょ」と決めつけることに抵抗しようという気持ちを一瞬でももったことは悪いことではない気がした。


子どもたちは日々ものすごいスピードで進化している。彼らのことを何でもわかっているような気にならず、できるだけいつもフラットに、そしてあたたかい気持ちをもって見つめていきたい。

2018年を振り返って。そして来年への思い。

今年も終わろうとしている。本当にいろろいろあった一年だった。特に後半は、西武の優勝の喜びも吹き飛んでしまうような、これまでに経験したことがないほどのショックなこと、悲しいことが立て続けに起きた。

そんなあれやこれやをぼんやり振り返っていたときに、ふと思い出したことがあった。

ぼくは今年が「本厄」だということ。

元来占いとかゲン担ぎのたぐいをまったく気にしないで生きてきたので、本厄というのも同い年の友達に言われるまで知らなかった。年初に会ったとき、本厄だからお祓いにいくというその友達に「お祓いにいかないオレと、どっちがよい一年になるか比べてみよう」なんて冗談を言ったことを、どんよりした気持ちとともに思い出した。


地震や台風の災害はもちろん、不幸も自分自身ではなく身内のことだから、ぼくがお祓いに行こうが行くまいが関係なく起きただろう。だからお祓いに行かなかったことを悔やむわけではないけれど、「厄年」といわれる40歳前後というのは、やはり人間にとっていろんな意味で転機になりやすい年頃ということはあるようだ。


これまで自分の人生は幸せだと感じていたし、将来についてもなんとなく楽観していたけれど、やっぱりそれだけではない、いろんな「覚悟」をしておかなければいけないということをはっきりと実感させられた年になった。

来年もおそらくいろいろあるだろう。でもそれも含めて自分の人生だ。精一杯受け止めて、でも必要以上に悲観せず、家族や信頼できる友人たちの支えも借りながら前向きに過ごしていきたい。