にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

お金への感情

何年か前から投資をやっていて、最近ではひふみ投信一択なのだけれど、さすがに素晴らしく成績がよい。

 

こちらとしては預けているだけで、この2年くらいで数十万円のプラスになっている。

 

もちろんこれは売って払い戻しをしない限り「利益」として確定しないわけだけど、日々増えていく口座の数字をWEBサイトで確認していると、たまに不思議な気持ちになる。

 

150万円の元手が200万円になればもちろん嬉しい。だけどどこか淡々と受け止めている自分がいる。

たとえば会社から臨時で50万円のボーナスが出たら、飛び上がって喜ぶかもしれない。もっといえば、道端で5千円札を拾った方が、めちゃくちゃ得した気分になるだろう。

 

だけど投資で増えたお金にはその実感がない。

数字を見た次の瞬間には、もうそれが、あって当たり前のものに感じるのだ。

 

この理由がいまだによくわからない。

売って初めて儲けになる、というワンクッションがあるからなのか。

これが、自分の銀行口座の額と直結していたら、また違う感覚なんだろうか。

 

この淡々とした感情の正体については、もう少し考えてみたい。

続・みそ汁の位置

みそ汁問題が、夫婦の大ゲンカに発展したのは先日書いた通り。

 

今日たまたま見かけた記事を読んだら、まさにこの筆者の家庭でも、奥さんがダンナのみそ汁の位置にイラついていたというではないか!

 

あなたはどっち?味噌汁のポジション、ごはんの右か奥かで東京人と大阪人が激論!

http://www.yomitv.jp/E2lOf

 

夫婦ゲンカにまで発展したかは定かではないが、本当に我が家でのやり取りが再現されているかのようだ。ついでに筆者もぼくも生まれが福岡というところまで同じである。

 

ますます気になるこの問題。この「お作法」はいったいどこからどこまで広がっているのか。

 

この記事を奥さんに見せて笑い合いたいところだが、どう考えても地雷に違いない。今度は家庭の危機にもなりかねないので自重しておこう。

 

好きになる力

について書いたのだけれど、公開したらなぜか文書が消えていた。辛い。。

 

年を重ねるとともに「好きになる力」が衰える。

若い時ほど歌や野球選手に熱中することがなくなった。

 

一方で、映画やドラマに「感動する力」は増している。人生経験を積むことで、たとえば父と息子の物語には、その両方に感情移入できる。年を取るのも悪くない。

 

そんな内容。またこんどじっくり書こう。

読書感想文「君たちはどう生きるか」漫画版

100万部突破らしい。

ぼくが買った帯には25万部突破、とあるから、ものすごい勢いで売れているようだ。

 

勝手な推測なのだが、これは他の本と比べてamazonよりもリアル書店で売れているのではないだろうか。

 

なんといっても「表紙」の力がすごい。

書店を通りかかったときに、あのコペル君の視線を受けたら最後、手に取らずにはいられなくなるだろう。

 

もちろん内容も素晴らしかった。

いろんなメッセージが込められているけれど、読み終わって最初に感じたのは、人は変わらないということだ。

 

この原作が書かれたのは80年前。その時代に生きる少年の悩みはそのまま共感できる。それどころか、今でも「すべて自分、人間が中心」と思っている人が多数派なのは、コペルニクスの時代から変わっていない。

 

長い長い地球の歴史からみれば、そんな人間が誕生してからこれまでの年月など、ほんの一瞬にすぎない。

ましてやヒト一人の人生など。

 

そう考えると、少し気が楽になる。

「ナニモノか」になろうと必死に努力するのもいいけれど、他人と比較するのではなく、自分にとっての幸せが何かを見極めて、悔いなく生きるのが一番だと思う。

 

いずれヒトは死ぬ。

それが40歳だろうと100歳だろうと、長い歴史からみたらほんの誤差のようなものだ。

あまり先を考えすぎずに、目の前を楽しむ。そんな気持ちにさせてくれた本だった。

 

子どもの性格はわかってるつもりでまったくわかってないという話

言い出しっぺはぼくなのだが、子どもたちの冬休み中に、目標を立てようということになった。

長男はキレイに後転ができるようになること。次男は逆上がりだ。

 

これまでもたまにそうしたチャレンジはやっていた。

達成したら、ちょっとした欲しいものを買ってあげる、というのをエサにしていたのだけれど、二人ともあまり物欲がないこともあり、なんとなくなあなあになって、うまくいかないまま終わっていた。

 

今回はエサはやめた。その代わり、お父さんもチャレンジをする。

極度にカラダが硬いぼくが、脚を広げて床にアゴがつくまでになってみせる、と宣言した。

 

まず、もともと一番ゴールに近かった長男があっさり達成した。しかし次男に逆上がりは相当ハードルが高い。頑張り屋の長男も猛特訓の末、一年生の後半でようやくできるようになった。長男よりもさらに運動が苦手で、しかもできないことはやりたくない性分の次男のことだ。すぐに練習しなくなるに決まっている。冬休みどころか、幼稚園のうちにできるようになるのは、なかなか難しいだろう。そう思っていた。

 

ところが、だ。

先週見たときには壁を使ってもなかなか回れなかったから、ぼくは「1日10回、壁を使って回る練習しなさい」と言い残していた。

奥さんによると、毎日一人で二階に上がって、ずっとやっていたらしい。

今日、一週間ぶりに見ると、本当に10回を軽々とこなせるようになっていた。

 

さすがに自力で回るまではまだ少し遠いが、先週と今週では、足の上がり方が大きく進歩している。この調子ならもしかすると本当に冬休み中にできるようになるかもしれない。そのくらい上達していたし、やる気が漲っていた。

 

ぼくは彼のことをまったく誤解していたようだ。やると決めたらやるオトコなのだ。驚いたし、とても嬉しかった。

 

これはぼくも頑張らないわけにはいかない。息子二人がこんなに進歩してるのだ。意外と父ちゃんもやるときはやるオトコ、そう思わせないとシャクだ。

 

 

 

みそ汁の位置

昨日は久しぶりに妻とケンカらしいケンカをした。

 

普段はあまり、少なくとも子どもの前ではケンカしないようにと思っているけれど、なんだかずいぶん揉めてしまった。

 

きっかけはケンミンshowだ。

関西ではみそ汁の位置が、ご飯の右ではなく上で、おかずが右、というのが一般的らしい。

 

実はぼくもそっち派だ。

もちろん「お作法」的にはご飯が左でみそ汁が右、とされていることは知っている。

でも頻繁に食べるのはおかずだから、そっちが近い方がよい。しかもみそ汁茶碗は持てるから、食べるときだけ手に持って口に近づければよい。ずっとそう思ってきたしそうしてきた。

 

だからテレビを見て、何気なく「やっぱりその方が食べやすいよな〜」なんて言ったのだが、それに妻がキレた。

曰く、あんたのそういうマナーを知らないところが嫌だ、私は毎日あんたがそうやって食べるのを見て気持ち悪いと思ってきた、それ以外にもあんたが普段からマナーとか風習をバカにしている態度が気にくわない、などなど。

 

もともと作法に厳しい家で育った妻からすると、その辺がゆるい家に生まれ、加えて一人暮らしが長く勝手気ままに食事をしてきたぼくは、マナーが最悪らしく、事あるごとに苦言を呈されてきた。

 

でもそれまでは、箸渡しで食べ物を取るのがダメとか、手を使わずに箸で皿を引き寄せるのは行儀が悪いとか、言われてみればそうかなと反省し、直してきたつもりだった。

 

でもみそ汁の位置については、なんでダメなのかがサッパリわからない。「そういうものだから」という以外の理由がないのだ。

だからぼくもイラっときた。「理由もないのに、なんでわざわざ食べにくい配置にしなきゃいけないのか。そんなの気にする必要ない」

 

そこからは泥沼だ。

おたがいあーでもないこーでもないの応酬。

 

気づけば長男が悲しそうな顔をしていたから、「もうやめよう」と言った。

妻の機嫌の悪さも、まあ時間とともにおさまってくるだろう。

 

ぼくはといえば、腹も立ったが、どちらかといえば「驚いた」という気持ちが強かった。

みそ汁の位置は、食べやすいに越したことはないが、一番の感情としてはハッキリ言って「どうでもいい」というのが正直なところだ。

だからそこまで不快に感じる人がいるとは想像もしたことがなかったのだ。

 

その後ググってみたら、みそ汁の位置問題はいろんな人が気にしているらしく、決して妻は少数派ではないようだ。

 

なんだか新たな発見をした気分だ。

 

たまには素直に謝ってみようかな。

 

恩人の死

今日の昼過ぎ、電話が鳴った。

前の職場の先輩が亡くなったという知らせ。

まだ40代、年末まで普通に出社していたらしく、あまりにも突然。死因はまだ不明とのことだった。

 

その会社に入社当時、文字通り右も左もわからないぼくに、ゼロからいろんなことを教えてくれた。

 

初めて末席で参加したプレゼン業務で、メイン担当として仕切っていたのが彼で、そこで交わされる会話のレベルの高さについていけず「ヤバい」と、相当焦ったのをよく覚えている。

 

そこから多少なりとも努力し、曲がりなりにも10年以上やれているのは、あのときの「ヤバい」があったからこそだと感じる。

 

そんな彼が亡くなった。

晩婚だったから、子どもは確かうちよりも小さいはずだ。

 

最近身近な人が亡くなると、本人がいない寂しさはもちろん感じるのだけれど、それ以上に、子どもと別れることの無念さや、反対に、子どもに先立たれた両親の気持ちを考えてしまい、やり切れない思いになる。

 

自分も他人事ではない。

人生いつどうなるかわからない。

できるだけ悔いなく生きておくこと、それを心に戒めておこう。

 

先輩、ありがとうございました。

お疲れさまでした。