にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

腰痛

年末の28日くらいからひどい腰痛に悩まされ、ほぼぎっくり腰状態。

 

動けないほどではないのだけれど、座ったり立ち上がったり、ひとつひとつの動作が怖い。

年明けからようやく楽になってきたものの、何をするにもおっかなびっくりという感じは続いている。

 

ぼくは元々姿勢が悪く、背骨が曲がっているらしく、その影響か、長らく膝や腰の痛みに悩まされている。

野球や登山など、体を動かすことが好きだからだましだまし筋トレもやるけれど、このまま根本的な改善をしないまま年を重ねていくと、いつか取り返しのつかない不具合が発生しそうな気がする。

 

今年は思い切って整体に通い、腰を据えてカラダのメンテナンスに取り組んでみようかとも思っている。

一朝一夕に改善するものではないから、根気もお金も必要だけど、将来の健康な生活への投資と考えて、やってみよう。

 

家族

奥さんの実家で2日続けての酩酊。。

毎年の恒例だけれど、自分の親とはもう数年に一回会えるかどうかという関係だから、せめてもう片方の親とは関係を密にして、子どもたちも「じいちゃん、ばあちゃん」との思い出をたくさん作ってもらいたいと思っている。

 

奥さんにも、自分と結婚したために両親と疎遠になるというようなことは、なってもらいたくない。

 

毎年みんなが、特にむこうのお父さん、お母さんが楽しそうにしてくれていると、あぁよかったなあと嬉しくなる。

こんな正月が、できるだけ長く続いてほしい。そんな2日目だった。

ブログ初め

親戚との宴会で痛飲し、もう眠たくて仕方ないけれど、今年はまた毎日書こうと決めたから書く。

なんでもいいから、少しでも書く。

 

今年はどんな年になるのか。いや、どんな年にするか。近い将来、会社に頼らなくても生きていける自分になるために、その礎を築いていきたい。

 

とはいえどんな方向に進めばよいのか、まだよくわからない。それを考えるには今日は酔っ払いすぎている。

 

おやすみなさいzzz

肩のセミのこと

もう10年以上前になる。

南青山にある、前の職場に勤めているときのことだ。

 

朝の出勤タイム。半蔵門線を降りて表参道駅から根津美術館方面へと向かう道。当時、取引先と少し揉め事をかかえていたぼくは、厳しい残暑にうんざりしながら重い足取りで会社へ向かっていた。

 

当時はスマホもない時代。ぼんやり前を向いていると、少し先を歩く人の肩にセミが止まった。その人は気づかず歩いている。

 

少し経って、セミはまた飛び立ち、近くの木に止まった。

 

のどかだなあと思いながら、なんだかふと肩が軽くなった。

 

毎日あれこれ思い悩んで悪戦苦闘しているけれど、この広い世界から俯瞰して見たら、自分が関わっていることなんてセミが肩から木に移る程度のささいなこと。何がどうなっても、大したことじゃないよなあ、そんな風に思えた。

 

それ以来、なにか厄介なことが起きてしんどくなったとき、大きな地球を思い浮かべる。その中でもがく、目に見えないほどささいな存在である自分を思い浮かべる。

すると「まあ大丈夫。大したことじゃない」と思えてくる。

そして実際、だいたいのことは何とかなるんだ。

 

あのときのセミは自分の人生をどれだけ楽にしてくれたか、計り知れない。

 

 

 

長男の日記

もう2〜3ヶ月くらい経つだろうか。

長男が寝る前に日記を書き続けている。

 

日記といっても、自由帳に2〜3行程度、ほんのささいなことだ。

誰々と遊んで楽しかった、学校の授業でこんな間違いをしたから気をつけよう、弟とこんなケンカをした、とかとか。

 

内容は他愛もないし、文章もいかにも9歳の小学校低学年らしいものだ。

それでも「続ける」ことができているのは大したものだと思う。

毎日、何事かを書こうとするのは想像以上に面倒くさいものだ。

 

そのことは、いつの間にかこのブログが超不定期更新になってしまったぼく自身が身をもって実感している。

 

寝る前にその日あったことを思い出して書き留めてみる。その積み重ねは、彼にとって語彙や表現の引き出しを増やしていくことに大いに役に立っていくのだと思う。

 

親にとっては、彼が何をし、どんなことを考えているのかを知る貴重なものでもあり、ひそかに毎日の楽しみとなっている。

 

ちなみに、6歳の次男も一緒に始めたのだが、毎日何をどう書いていいか、こだわりが強すぎて疲れ果て、すぐに挫折してしまった。

書いている期間も、見られたくないからと、書き終わったらどこかに隠していた。

 

対して、いつも開けっぴろげに机の上に出しっぱなしの長男。ほんとに対照的な二人である。

 

 

音楽と記憶

唐突だけど、「嵐の素顔」工藤静香のこの曲を聴くとかならず浮かんでくる記憶がある。小学生のとき、父親と車で日本縦断の旅行をした。ひたすら車に乗って、カセットテープの音楽を聴きながら、通り過ぎていく街の風景を眺めていた。

 

父親は歌謡曲には興味がなかったから、きっと姉あたりが編集してもたせてくれたテープだったのだろう。なぜか嵐の素顔、そして爆風スランプのRunner。その二曲が、強烈にそのときの記憶と結びついている。

 

曲自体が好きかどうかとは別に、よく耳にした「あの曲」は「あの頃」とセットで、記憶のどこかにしまわれている。

 

たとえば辛島美登里の「サイレント・イヴ」。中学時代、田舎町でひたすら好きな女の子のことを考えて悶々としていた、実家の部屋が蘇ってくる。

 

ブラックアイドピーズのwhere is the loveを聴くと、オーストラリアのシェアハウスと、そこで毎日飲んでいたビールの味を思い出す。

 

セルジオメンデスのmas que nadaは、当時密かに気になっていた子が、ある日CDを焼いてぼくにくれたアルバムに収められている。天にも昇る心地で、擦り切れてもおかしくないくらいに聴きまくった。彼女は今どうしているのか...

 

ここ数年、以前ほどは音楽をあまり聴かなくなったけれど、やっぱり音楽は大事だ。

音楽を聴くことでしか思い出さない記憶がたくさんあるから。

いま聴いているあの歌は、10年、20年後、どんな思い出を甦らせてくれるだろうか。

 

 

zozosuitの遅延について

zozosuit が届かない。

メールを見ると注文したのが11/22。もう3週間近く経つけれど、一向に出荷される気配はない。

 

なんだけど、そこにまったく「腹が立つ」という感情が生まれてこない自分がいる。

なぜなのかちょっと考えてみた。

 

もちろん無料だから、というのは1つの要因だろう。

仮に5千円なり1万円なりで決済していたら、もう少しはヤキモキしていたかもしれない。でも一番はそこではない。

 

自分にとって最も大きな理由は、きっと「未体験」のものだからだ。

いまだかつて「zozosuit (のようなもの)のある暮らし」を体験したことがない。

 

だから、届くのを首を長くして待ってはいるが、それが無いからといって今の生活が不便になるわけじやない。

そもそもzozosuit によって自分のライフスタイルがどのように変わるのか想像もつかないのだ。でもなにか大きな「人類の進歩」となるような期待がある。

 

だからどれだけ待たされてても、生まれるのはネガティヴな感情ではなく「ワクワク」でしかない。

 

これほどの「未来」を感じさせてくれるのはiPoone以来かもしれない。とまで思ってしまう。

 

もっとも、待たされれば待たされるほどワクワクが高まりすぎて、実際のプロダクトを目の当たりにしたときに「期待外れ」とならないか、それだけが少し心配ではある。