にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

これからのこと

いまの生活には満足している。仕事は仕事である以上「楽しい」とまでは思えないけれど、割と向いていると思うし、今日だって連休明けに憂鬱になることもないから、それなりに恵まれているのだろう。給料だって、もちろん上を見たらキリがないけれど、自分の大したことない能力からしたら十分だと思う。家族4人が暮らせて、休みの日にはキャンプや登山、ときには旅行に行ったりできる。特にこれ以上の贅沢を望むことはない。


でも、である。これから先も「満足」レベルを保てる保証はない。10年後に50代の自分が満足するには、いまよりも高い収入が必要だろう。けれど当然ながら、今の会社で自然に給料があがっていくことはない。これ以上稼ぎたいと思えば、必然的に管理職を目指すことになるのだけど、そこには心と時間の余裕を犠牲にする必要が出てくる。その結果管理職になり給料が上がったとして、自分は「満足」できるのだろうか。よくわからない。

では、ずっと気楽に今のままでいたいのかと問われると、そんなこともない気がする。給料は据え置きで、同年代や後輩が管理職になっていくなかで、今のように「満足」と思えるのか。よくわからない。


ひとつだけわかっていること。あまり先のことを不安がってもいいことはない。これまでの10年間でも、想像もつかなかったいろんなことが起きて今がある。そのときの自分が気が向いた方向に舵をとり、あとは流れに身を任せる。そんな感じでやってきたし、これからもそれでいいんじゃないかな。とりあえず今のところはそう思っている。

いいことば

「成功は約束されてなくても、成長は約束されている」

これは今年からマリナーズでプレーする菊池雄星投手の文章にあったことば。さすがにいいことを言う。シンプルで、芯をとらえていると思う。


「成功」というのは、プロ野球選手のメジャー挑戦に際して必ずといっていいほどセットで語られるワードだ。マスコミ、そしてファン。「現場」から離れている人になればなるほど、○○は成功した、××は成功できなかった、とわかったように語る人が多いように思う。


でも菊池投手にとって「成功」よりも大切なのは「成長」。常に一歩でも先をめざし、自分に負荷をかけ続けるという彼は、異国でレベルの高いリーグに挑戦することで、野球はもちろん、人として成長できると確信している。挑戦する理由があるとしたら、それがすべてなのだと思う。


そもそも「成功」にだって客観的な物差しは存在しない。何を求めて挑戦したのか。結果として何を得たのか。そんなことは本人にしかわからないことだ。たとえ成績が残せなかったとしても、人生経験としてはかけがえのない収穫を得ることもあるだろう。成功かどうかは他人が判断することではない。


と、ここまで書いて、オレはなんて当たり前のことを言ってるのだろうと思った。たぶん世の中のほとんどの人はそんなこと百も承知のはずだ。何かしら自分にとっての「挑戦」をしたことのある人であれば、その結果以上に、自身が「成長できること」こそが挑戦する意義であることを理解している。他人の成功うんぬんをあげつらってしまうのは、挑戦できない人間であることを表明している行為に等しい。

読書感想文「すいません、ほぼ日の経営」(川島蓉子・糸井重里 著)

ぼくは一介の平サラリーマンだ。経営者どころか管理職ですらない。はっきり言って「経営」には何の関心もない。本の分類として「経営カテゴリー」があるとしたら、おそらく一冊も読んだことはない。でも糸井さんの著作には関心がある。糸井さんが語ることばには関心がある。ゆえに「糸井さんが語る経営」と聞くと読んでみたい。数ページ立ち読みしたら、やはり面白そうだ。そして購入に至った。


いきなり話が逸れてしまうけれど、この座組みの作り方は、ぼくが関わる広告の仕事でもとても参考になると思った。商品やサービスに関して、従来の利用者像とは異なる人たちにも使ってもらうことを「間口を広げる」と言い、そのための施策を求められることも多い。この本に当てはめると、糸井さんが語ることで、これまでの「経営本」好きな人たちだけでなく、糸井さんやほぼ日のファン、クリエイティブ文脈の人たちなども手を伸ばす。まさに「間口を広げる」ことに成功している。まあ、この本自体はそんな意図で企画したものではないと思うけれど、自分が見事に動かされ手に取ったことで、内容だけでなく「動機のつくり方」としても学びがあると思った次第。


で内容であるけれども、予想どおり、読んでいて気持ちがいい本だった。

糸井さんと川島さんのやり取りは、ことばの一つひとつが選ばれ、ていねいに磨き抜かれているから、「咀嚼」する必要がなくダイレクトにこころに収まり、養分として積み重なっていく感じがする。読書というよりも好きな音楽を聴いている時間のようだ。ほぼ日に「ごくごくのむ古典」という講座があるけれど、まさに「ごくごく飲む」ように読み進めていくことができる。


安定してクリエイティブな集団であるために、そしてほぼ日を「糸井さんがいなくてもいい会社」にするために、心がけ、日々社員に働きかけていること。その思考や取組のひとつひとつがまさに「クリエイティブ」であり、糸井さんだからこそ成し遂げられた偉業のように思えた。


個人として素晴らしい作品を残すクリエイターはそれなりに多く存在しているけれど、自身の「クリエイティビティ」をひもとき、知として一般化し、安定して発揮できる集団を創りあげた人は唯一無二ではないだろうか。


ぼくみたいな平凡な人間でも、自分なりに、仕事をおもしろくしていこうと勇気を与えてくれると同時に、糸井重里というクリエイターのあらたな凄みと深みを感じる一冊だった。

またやってしまった。。

同僚とランチに行ったら、そいつが、ある別の同僚に対するグチを言い始めた。

わかる。わかるぞ~。オレもその人には最近イライラさせられていたから。そうそう、人にまかせっきりで、仕事への責任感が感じられないよね。そのくせ周囲には「自分がやってる仕事」アピール。ほんと参っちゃうよな。なんて内心で激しくうなずきながら、でも、できるだけ陰で人を悪く言わない修練を自分に課しているので「まあ、そうだよね~」くらいで堪えていた。しかし、そのうち「言いたい欲望」に屈してしまった。相手のグチが一段落したところで、自分の体験談を披露してしまった。「あ~あ、言っちゃった」という後悔も抱えながら。言ったって後に残るのは、スッキリしないむなしさだけだ。聞いている相手だって、自分が発散したいだけで、他人の話を特に聞きたいわけじゃない。分かってるのに言ってしまった。そして、修行の足りない自分にがっかりしながらこの文章を書いている。


結局のところ、人の悪口を言わないとか、言い訳しないとか、人のせいにしないとか、そういうのは「世のため人のため」ではなく、ぜんぶ「自分のため」なんだ。口にしたところで、気持ちは晴れないし、人からの信頼は失うし、いいことは何もない。覚えておこうね、自分。

メルカリその後

iPhoneを出品した初体験から8か月。徐々にメルカリライフにはまってきた感じがする。

 

テントやスキーバッグ、単行本など6品を売却。中には購入した金額より高く売れたものもある。とはいえあくまでも不用品を処分しているだけなので、単価は低く、すごく「儲かった」というわけではない。リサイクルショップにもっていくよりも良かったという程度で、やりとりや梱包・発送の手間を考えると、金銭も含め物理的な「メリット」はそれほど大きくはなく、それだけで続けられるモチベーションとはならない。

ではなんでやっているかといえば「楽しいから」。たとえば単行本でいえば、ブックオフで売るより数百円得しただけだろう。でも写真の撮り方やタイトル・値付けまで、自分の頭を使って出品し、その結果として数百円の「成果」が生まれる。その一連の体験が、思っていた以上に快感だし楽しいのである。

ふだん会社のお金でビジネスをし、毎月定額の給料をもらっているサラリーマンのぼくにとって、自分事としてリアルに「商売」の面白さを教えてくれる存在がメルカリである。

 

スマートフォンにあらわれる、商品売却の通知。あの瞬間のときめきを求めて、今日も「商売のタネ」を探している自分がいる。

弱い人間の強み

NHKの「ダーウィンが来た!」が好きで子どもと一緒によく見ている。

今週と先週はライオンやヒョウなど「ビッグキャット」と呼ばれるネコ科動物たちの特集で、食物連鎖の頂点に君臨する彼らの能力に驚きっぱなしだった。


中でもユキヒョウの狩りのシーンがすごかった。急斜面を猛スピードで走りながら断崖に追い詰め、スピードをゆるめた獲物に躊躇なく飛びかかり数十メートル下の谷底まで真っ逆さま。えっと目を疑う光景だ。しかし地面に叩きつけられた後も、斜面を転がりながらも離さない。それどころか徐々に態勢を整え、最後は首もとをくわえこんで仕留めた。あんな高さから飛び降りて(というか「落ちた」に近い)生きているだけでも驚愕だが、専門家によると、跳び方に迷いがないことからも、わかってやっているのではないかと言う。アンビリーバブル。


ほかにも、ジャガーが川を泳いで忍び寄り後ろからワニを捕えたり、ライオンの真夜中のチームプレーによる狩りなど、迫力シーンの連続に興奮しっぱなしの我が家であった。


そしてあらためて考えてしまった。これほどまでに高い知能と身体能力を併せ持つビッグキャットの存在がありながら、なぜ人間が地球を支配できたのだろう。学術的なことはわからないけど、少なくとも「協力」が得意だったからというのは間違いないだろう。だって今の自分を考えたら、1対1ならばビッグキャットどころか、そこらへんの野良猫にだって勝てる自信はない。

もちろん道具を使えるようになったこともあるだろうけど、それも改良されていくには、仲間同士で知恵や情報を交換しあう協力が不可欠だったと思う。


寂しくなったり、疑心暗鬼になったり、やきもちをやいたり。そんなやっかいな感情も、人が仲間なしでは生きていけない動物だからだと思うと、なんだか受け入れられる気がする。

サラリーマンとしての心得

社会人になって約20年。そのほとんどをサラリーマンとして過ごした中で、少しずつ思いを確かにしてきたことがある。


それは、職場の外で仕事や会社のグチをいつも言っているような人生は送りたくないということ。そのために心がけることが2つある。1つは、言いたくてもグッとこらえるということだ。一見、ストレスが溜まりそうに思えるが、そのときの感情にまかせて放言したあとに「つまらないグチを言ってしまった」と自己嫌悪することに比べるとだいぶマシである。

とはいえ「我慢する」というのはなかなか難しい。そこでもう1つの心がけが重要になってくる。それは「できるだけ本心にしたがう」ということ。そうすれば、そもそも発散しなければならない不満が少なくなる。上司に反論したいのに言えない、帰りたいけど誘いを断れず付き合ってしまうなど、本心を抑えて行動した結果、あとで激しく後悔する。若いころはそんなことを繰り返してきた。結果「誰それは人の話を聞けない」とか「飲み会がめんどくさくて最悪」とか、どんどん不満がたまっていく。そうなるとグチを我慢するのはかなり難しい。


本心にしたがうには「周囲の目」を気にしない勇気がいる。でも「周囲の目」は実は自分が勝手に意識している場合も多い。意見を言ったり、誘いを断ったりというのは、本人には思い切りがいるが、後になって誰も覚えていないというくらいのことだったりする。「その瞬間」さえ乗り越えることに慣れてしまえば、驚くほど楽になる。そのうち周囲からも「アイツはそういうヤツ」と見なしてもらえればさらに生きやすい世界が待っている。


でも人によっては、自分が我慢して周囲に合わせた方が楽、という人もいるだろう。もちろんそれでもいいと思う。ぼくにとっては「我慢しない方が楽」というだけの話だ。

ぼくは自分の価値観を大切にしたいという意識が強い。だからこそ、家族や友人も含め、他の人にまで価値観を押し付けてしまうことがないように気をつけたい。