にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

政治家の人たち

昨日なにげなくテレビを見ていたら、トランプ大統領が帰国後に安倍首相と電話会談をしたというニュースをやっていた。

 

それを聞いてうちの奥さんが「今日シンガポールから帰ってきて夜に電話会談なんてたいへんだね〜」とつぶやいた。

 

ほんとにそうだ。

安倍さんとかトランプさんとか、ほんとによく働くな〜といつも感心してしまう。

 

いったいこのモチベーションはどこにあるのだろうか。

自分だったら、一国の総理大臣なんてたとえ何十億円の報酬をもらおうが絶対にやりたいとは思わない。

 

好き嫌いとか支持できるかどうかは置いておいたとして、自分の理想の実現のために、心身を削る思いをして一秒たりとも気の休まることのない生活を送る彼らには頭が下がる。

 

結局は彼らもまたモーレツサラリーマンやスーパー経営者と同様に「仕事が好き」な人なんだろうと思う。

 

そこまで考えてふと思った。そんな生活を送る政治家にとっては、最近話題の過労死や裁量労働の問題なんて「なに甘っちょろいこと言ってんだ」というのが本音かもしれない。

目的は何か。大切なことは何か。

ある外国で、電車の改札を全部とっぱらって電子決済にしたという記事を読んだ。

不正乗車しようと思えばいくらでもできるのだが、その割合はそれまでとほとんど変わらなかったらしい。一方で改札待ちや乗車券購入の手間などが軽減され、業務の効率化や乗客増につながったとのことだった。

 

こういうことってよくある気がする。

全体で見たらわずかな不正を防止しようとするあまり、いろんな手間が増え、誰の得にもならないようなこと。

 

ある得意先にキャンペーン提案をしたときのこと。

商品にシールを貼っておいて、それを応募券代わりにするというよくある方法だ。

それについて先方のある担当者が「この方法だと店頭でシールだけはがして応募する人が出てくるんじゃないか」と発言した。

 

たしかに可能性はゼロではない。たぶんそういう人はいるだろう。

でもそれを防ぐためにたとえば「レシート応募」にすると、応募者数は激減するのが目に見えている。お客様の興味を促し、買いたい気持ちになってもらうキャンペーンであるはずが、手間を増やし応募意欲をそぐようだと意味がない。

 

一番大切なのは「何のためにやっているのか」という目的だ。何事も不正を防ぐことに気を取られて、目的を見失わないようにしたい。

なんでも話せる友人

ぼくには「何でも話せる友人」という有難い存在が男女数人いる。

 

もちろん実際は本当に「なんでも」というわけではなく、相手によって仕事や遊び、家族など自然に話題を選んでいるわけだけど。

 

たとえばある男の友人とは昔の恋愛話で盛り上がるし、別の女友達とは子育てや夫婦間の話題だ。

 

関心ある話題において共感ポイントが多く、かつ自分にとって新鮮な視点ももっている。そんな人とは話していて楽しい。

 

でもそれだけで「なんでも話せる」存在になるわけではない。もう一つ大事なポイントがある。

 

それは「口が堅い」こと。

三者に話してもいいことか、そうでないのか、その辺の判断が信頼できる人かどうか。それはしばらく会話をしているとだいたいわかってくる。

 

「これは内緒なんだけど」なんてわざわざ言わなくても、この人は無駄に他言することはないだろう、という安心感がある人。それがぼくにとって「なんでも話せる友人」だ。

 

彼らはぼくにとって大きな心の支えだ。彼らと話していると、日頃気づかないうちに部屋の隅にたまった埃のようなストレスがすっきりキレイになるを感じる。

 

ぼくも相手にとってそんな存在であるといいなと思う。

たばこの問題

会社の人とランチで、喫煙席がいっぱいだったから禁煙席に入った。

 

ぼくは死ぬほどタバコのにおいが嫌いだけど、さすがに連れが吸う人のときは一応「席はどちらでもいいよ」と言っている。

だからこの日はラッキーだった。

 

その席で他愛もない雑談の流れから「最近は潔癖すぎて人間の免疫力が落ちてるんじゃないか」という話になった。

 

すると間もなく還暦の喫煙者である同僚が「自分らが子どもの頃はタバコの煙に囲まれて育ったし、添加物だのアレルギーだの気にしてなかった世代だけど、平均寿命は伸びている」というようなことを言った。

 

でもいまの潔癖な環境で育った子どもたちは、抵抗力がなさすぎて寿命は縮まるのではないか、と。

 

ぼくはタバコのにおいが死ぬほど嫌いだから、そのくだりでタバコにつながることにちょっと驚いた。

彼は副流煙などの健康の問題で禁煙が求められていると思っているらしかった。

 

それはちょっとちがう。大きな問題は健康面ではなく、まず圧倒的に煙やにおいが不快だからなのだ。

 

仮にタバコがカラダによいものだったとしても、ぼくは喫煙の環境には一瞬たりともいたくないというのが本音だ。

でも喫煙者の彼にとっては、おそらくその感覚は理解できていないのだろう。

 

そのときに、自分にもそういうことはあるかもしれないと思った。

自分にとっては当たり前すぎて想像もできないことで、他の人が辛い思いをしたり嫌な気分になったり、ということが。

 

どんなことでも、当たり前のことほど一度立ち止まって「それが誰にとっても当たり前なのか」ということに想像力を働かせられるようにしたいと思ったランチの時間だった。

 

子どもへの感情

次男は一年生になるけど、なにかと「触れ合いたがり」である。

いまだに外を歩くときは手をつなぎたがる。

居間でテレビを観るときは膝の上に乗ってくるし、ソファで本を読んでいるときに横に座ると、すぐにぼくを背もたれに寄りかかってくる。まるで人懐っこいネコみたいだ。

そんな息子がかわいくて仕方がない。

 

まわりから見たらもしかすると「もうこんなに大きい子が」と思うかもしれないが、親からするといつまでも甘えん坊でいてほしい願望がある。

 

そして子どものあたたかい肌に触れると、なんだか元気が生まれる。心の底で自分の生命力みたいなものにポッと火が灯る感じがする。この子たちのためにがんばろうと前を向ける。

 

いつか、もう近いうちに次男も親離れをするだろう。そうなってもらわないと心配になるけど、できるだけ遅れてほしいとも思う。子どもに対する親ならではの矛盾した感情である。

大人になるということ

この週末はキャンプに行った。

それはいい天気で、サイトからの眺めも抜群。日曜日からの泊まりだったから他の客もまばらで、最高にのんびりできた二日間だった。

 

ぼくや奥さんは、向こうに見える山や畑を眺めて「あーいいところだねえ〜」なんて言ってるわけだけど、息子二人は到着するやいなや、普段は目にしない大きさのアリに大興奮で、捕まえてみたり巣をほじくったり、アリには気の毒だが、、ずいぶん熱中していた。

 

途中で沢の水を汲みに行ったときのこと。

生い茂る木々の間から見える青い空をみて、次男が「なんかこの空の感じ、前に行った宮崎を思い出す」と言った。

 

本当に宮崎の記憶がどこまであるのか定かではないけど「こいつもずいぶん成長したなあ」という印象を受けた。

 

大人と子どもの大きな違いは、「視野」にある気がする。

子どもは基本的に目の前のものしか見ていない。それがだんだんと遠くを眺め、空を見上げるようになる。

 

少し引いた目を持ち始める。それを「大人になる」と言うのかもしれない。

 

うちの息子たちには、できればどちらか一方だけじゃなく、両方を持ち続ける大人になってほしいなと思った。

「ホドリーマン」でいい自分

フリーランスで活躍している人には憧れるし、会社員でありながら世の中に名前が知られるほどのスーパーサラリーマンも尊敬する。

 

彼らの共通点は自分に厳しく妥協しない点にある気がする。そして仕事が好きというか、好きなことを仕事にしているというか。

 

ぼくが社会人野球の選手としたら、彼らは一流プロ野球選手やメジャーリーガーという感じだ。

 

基本的には仕事を面白く感じているし、それなりに向上心もある。でもやっぱり休みに野球したり家族で登山やキャンプしたり、そっちの方が好きだ。仕事の完成度を高めるよりも、妥協して遊ぶ方を優先してしまう。

そりゃやっぱり大成功はしないよなと思う。

 

そしてそんな自分にある程度満足もしている。

給料は多くはないがなんとか家族を養い、休みもそれなりにある。仕事はメジャー級ではないけど、会社ではそれなりに重要な案件を任せてもらってやりがいも感じる。もっとできるようになりたいと、それなりに勉強意欲もなくはない。

 

ぼくはスーパーリーマンよりも、“ある程度”や“それなりに”という言葉が似合う「ホドリーマン」であることに幸せを感じるタイプのようだ。

 

今後はわからないが、これが40歳時点での気持ちである。