にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

大人になるということ

この週末はキャンプに行った。

それはいい天気で、サイトからの眺めも抜群。日曜日からの泊まりだったから他の客もまばらで、最高にのんびりできた二日間だった。

 

ぼくや奥さんは、向こうに見える山や畑を眺めて「あーいいところだねえ〜」なんて言ってるわけだけど、息子二人は到着するやいなや、普段は目にしない大きさのアリに大興奮で、捕まえてみたり巣をほじくったり、アリには気の毒だが、、ずいぶん熱中していた。

 

途中で沢の水を汲みに行ったときのこと。

生い茂る木々の間から見える青い空をみて、次男が「なんかこの空の感じ、前に行った宮崎を思い出す」と言った。

 

本当に宮崎の記憶がどこまであるのか定かではないけど「こいつもずいぶん成長したなあ」という印象を受けた。

 

大人と子どもの大きな違いは、「視野」にある気がする。

子どもは基本的に目の前のものしか見ていない。それがだんだんと遠くを眺め、空を見上げるようになる。

 

少し引いた目を持ち始める。それを「大人になる」と言うのかもしれない。

 

うちの息子たちには、できればどちらか一方だけじゃなく、両方を持ち続ける大人になってほしいなと思った。

「ホドリーマン」でいい自分

フリーランスで活躍している人には憧れるし、会社員でありながら世の中に名前が知られるほどのスーパーサラリーマンも尊敬する。

 

彼らの共通点は自分に厳しく妥協しない点にある気がする。そして仕事が好きというか、好きなことを仕事にしているというか。

 

ぼくが社会人野球の選手としたら、彼らは一流プロ野球選手やメジャーリーガーという感じだ。

 

基本的には仕事を面白く感じているし、それなりに向上心もある。でもやっぱり休みに野球したり家族で登山やキャンプしたり、そっちの方が好きだ。仕事の完成度を高めるよりも、妥協して遊ぶ方を優先してしまう。

そりゃやっぱり大成功はしないよなと思う。

 

そしてそんな自分にある程度満足もしている。

給料は多くはないがなんとか家族を養い、休みもそれなりにある。仕事はメジャー級ではないけど、会社ではそれなりに重要な案件を任せてもらってやりがいも感じる。もっとできるようになりたいと、それなりに勉強意欲もなくはない。

 

ぼくはスーパーリーマンよりも、“ある程度”や“それなりに”という言葉が似合う「ホドリーマン」であることに幸せを感じるタイプのようだ。

 

今後はわからないが、これが40歳時点での気持ちである。

自意識という敵

ある方のLBGTのカミングアウトが話題になっていた。

人生最大の勇気が必要だったとコメントにあったけれど、もし自分だったらと思うと、やはりなかなか踏み切れるものではないだろうと思う。

 

一方で、その方がLGBTであったことを知っても、そこまで驚いてない自分がいた。ふうん、そうだったんだな、という程度だ。

もちろん、自分の生活にもっと身近な人のことだったらもう少し驚いたかもしれない。

でもきっと本人が「どう思われるだろう」と想像する恐怖の大きさと比べると、自分はそれほど気に留めないのではないか。

 

もっとささいなことでいうと、たとえば髪型を変えてちょっと失敗したな、会社に行くの恥ずかしいなと思っても、周りの人はほとんど自分の髪になんて関心はない。

 

会社をやめて何かを始める人がいたとして、本人はその話を切り出すのにも勇気がいるだろう。同僚や上司にどう思われるか、なんてドキドキするかもしれない。

 

でも周囲はそれほど気にしない。聞いたその場では驚くかもしれないが、きっと会社から帰ってテレビを観ているときには忘れている。その程度だ。

 

つまり、自分の勇気を押し込める大きな要因は自意識にあるのかもしれない。

 

この年になって、まわりのことを気にしてあまりいいことはないと、だんだん気づいてきた。

 

LGBTを公表した彼女は、もともと人生の達人のような人だ。そのことをぼくなんかの何倍もわかっているのだろう。

 

周囲の目を想像して感じる恐怖よりも、それを気にしない自由を選ぶ。自分もそんな人間でありたい。

ハリスの旋風(ちばてつや作)

小学生のときに読んだマンガだから、おそらく30年ぶりくらいになる。

もともとは図書館であしたのジョーを借りようと思ったのだが、貸出中だったので「そういえば」と思い出した。

 

あしたのジョーよりも少し子ども向けだが、今読んでもめちゃくちゃ面白い。

暴れん坊でちゃらんぽらんだが、卑怯なことは大嫌いな石田国松。めっぽうケンカが強く運動神経も抜群な彼が、ハリス学園のいろんな部活動で大活躍するストーリーだ。

次々にワルや強敵が現れるが、友達や家族の支えもありながらやっつけていく。

 

大人になった今読んでみると、この作品の魅力は「絵」だと感じる。

 

もちろんストーリーも最高だし、ユニークで愛しいキャラクターばかりというのもある。

でもいちばんは、本当に「絵が上手い」ことだと思う。

 

ちょっとした表情や仕草から、微妙な感情が手に取るように伝わってくる。それを支えているのは、小さなカットでもすごく細かいところまで書き込まれている「情報量の多さ」だろう。

 

以前に川上量生さんが、ジブリのアニメについて大人にも受け入れられる要因を解説する際に「情報量の多さ」を挙げていた。髪の毛一本、木の葉一枚の揺れまでこだわって書き込まれている。観る方はそこに注目するわけではないけれど、その積み重ねがリアリティを増し、感情を移入させやすくなることにつながっている。

 

ハリスの旋風が、ストーリーは王道の少年マンガでありながら今読んでも熱中できるのは、そういう要因があるのかもしれない。

 

さすがに巨匠ちばてつや。ますますあしたのジョーも読みたくなってきた。

運動会のかけっこ

子どもの頃は運動会が大好きだった。

練習をしているときから本番が待ち遠しくて仕方なかった。

 

比較的走るのが速かったから、両親や好きな子にいいところを見せられる絶好の機会だった。

 

 

昔、運動会でかけっこをやめる小学校があると聞いて、なんじゃそりゃ、と思ったことがある。苦手な子は嫌なのはわかるけど、社会に出たら競争社会だし、順位がつけられることに配慮して止めるというのはさすがに過保護だと考えていた。

 

今、脚がそれほど速くない子を持つ親として、かけっこなんて今すぐ無くなってしまえばいいと思う。

 

強制的に大観衆の前で走らされて、必然的に順位がつけられる。あまりにも残酷だ。

勝負の要素を取り入れたいなら団体競技でもいいはずだし、好きな子は少年団でスポーツでもすればいい。

 

走るのを観るのは確かに盛り上がるけど、それなら選抜メンバーのリレーだけでもいいんじゃないかと思う。

 

かけっこは止める理由はいくつも思いつくが、それが必要な理由はほとんど見当たらないほど、なくてもいい競技ではないか。

 

こんなことは、子どもがいなければ思いもしなかったことだろう。子育ては視点を変えてくれる。本当に面白い。

知ってることが少ないと、変化を恐れる。

タイトルは糸井重里さんのことばだけれど、ほんとにそう思う。

狭い世界しか知らないと、そこのルールが当たり前になってしまう。その中での評価が絶対になり、はみ出すことが怖くなる。

 

自分の「世界」をどれだけ広げられるかが、楽しく生きる必須条件のような気がする。

そのためにはいろんな場所に行き、いろんな人と会い、いろんなことをやってみる。それがよさそうだ。

 

子どもたちには、旧世代であるぼくの価値観をあまり押し付けたくはない。でも「世界を広げる」ことに興味をもつ人であってほしいし、そのための援助はできる限りしてあげたいと思う。

 

まずは父親であるぼく自身が、守りに入らずいろんなことに興味をもって楽しみたい。そうすればきっと自然に彼らにも伝わるだろう。かくいうぼくもやはり、父親の生き方に強く影響を受けていることに、この年齢になって気づいたりするのだ。

帰りの電車で

ある駅でしばらく停車していた。

時間にして4〜5分だろうか。

 

そんなに混んでる訳でもなく、みんなスマホ見たりしているので特にざわつくわけでもなく、しばらく経って発車した。

 

「4分遅れで出発しました。お急ぎのところ〜」というお決まりのアナウンスが流れ、まあちょっとした乗客対応かなんかだろうと思っていた。

 

その後次の駅を発車した頃、再びアナウンスがあった。

「運転士のトイレのため、4分遅れで運行しています」

 

トイレ...

長年電車に乗っているけど、初めてである。

 

でも考えてみたら人間のカラダ、どうしても我慢できないことだってある。

我慢しすぎて運転に支障をきたすくらいだったら、数分止まってでも出してもらいたい。

 

それにしても、やむを得ない時はトイレに行くこと、それをきちんと乗客に説明すること、これもマニュアル化されてるのだろうか。

 

だとしたらなかなかステキな会社だと思った。