ほぼ日の、糸井さんと小泉今日子さんの対談を読んでいた。
小泉さんが子どもの頃、母親に「アイスを買い食いしてもいいけど、座って食べろ」とか、近所に転校生が引っ越してきたら「朝迎えに行って、一緒に学校に行ってやれ」とか、あれこれ厳しく言われたことを振り返る。そのくだりで、糸井さんがこんなことを言っている。
“学校で教わる勉強は、
それはそれで重要だけれども、
思えば人が人として生きていくときに、
何が大事かということは、
親や友達から学んだりすることが多い。
しかもそれって、あとで活きてくるね。”
そして続ける。
“なんというか、
「自分を好きでいられること」
といえばいいのかな。”
この言葉を読んで、あぁ本当にそうだ、と思った。
ぼく自身が子どもたちにあれこれ言うとき、それは勉強のことだったり、態度のことだったり、いろいろある。でもそれは「よい成績をとってほしい」とか「行儀よく育ってほしい」とかいう思いとはちょっと違う。違うというよりも、それらは手段のひとつに過ぎない。人それぞれ「幸せ」の尺度が異なる中で、自分の価値観に合う幸せを「選べる立場」にいてほしい、そんな気持ちだ。しかしそれも何か言い足りない。そもそも「幸せ」って何なのか。
子どもに対するとき、いつもそんな言語化できない感情を抱えている自覚があった。
そんな中での、先ほどの言葉。
一言で表すならばまさに「自分を好きでいられる」、そんな人生であってほしいという願い。それに尽きると思った。
恥ずかしげもなく告白するならば、ぼくは自分が好きだ。これはきっと教えられたり、訓練して保てる気持ちではないだろう。そうかと言って、生まれつきの性格というわけでもない。両親や妻、友人などこれまでぼくと接してくれた人たちの態度や、かけてくれた言葉が、少しずつ自分を好きにさせてくれたという実感がある。
その結果、ぼくはいま自分がそれなりに、漠然とではあるが「幸せ」と感じる人生を歩めている。
親が子に「自分のようになって」とはおこがましくて言えないセリフだけど、ただ一つ「自分を好きになる」ことに関しては、そうなってほしいと心から願う。
そのためにぼくにできることは、子どもたちがぼくに「好かれている」と思える瞬間を、ひとつでもふたつでも多くつくっていくことなのだろう。