にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

開幕

ライオンズの開幕戦を観に札幌ドームへ。

これ以上ない快勝だった。
足を絡め、センターから逆方向への連打で相手投手を攻略。
エース菊池は貫禄の投球。
圧倒的大差の中で、控えにまわった松井稼・メヒア・栗山も全員代打で登場と、ファンにとってはたまらない展開。


ただ一点だけ、どうしてもビジター応援団の中に混ざっての観戦にはなじめない。
札幌ドームでは他の席でライオンズの応援をする選択肢がないのでやむを得ないのだけど、盛り上げるというよりはがなり立ててやかましい応援団、大差に気をよくしすぎて調子にのって相手選手をヤジるおっさん、攻撃時は強制的に立たされるシステム。(まわりがみんな立つものだから、自分も立たないと全く試合が見えない・・・)ちょっとつらいのである。


楽しんで応援している人たちまで否定するつもりはないけど、もう少しそれぞれが好きなスタイルで見られるとよいのだけど。
いかんせんビジターの立場ではあきらめるしかないね。。

占い

今日、送別会で行ったお店のママが占いをできるということで、いろいろ話してもらった。

 

ぼくは胆石と肺に影が見えるから病院に行った方がいいと言われた。

子どものことは、長男はもっと好きなことをやらせた方がいいとか、次男は音楽の道がいいかも、とか言われた。

 

こういう風にはっきりと言われると、心当たりがあれば「すごい!」と思うし、心当たりがないことは「あんまりわかんないけどそうなのかも」と思う。

嘘をついてるとは思わないし、彼女には見えているのだと思うが、その見えているものを「どう解釈するか」という部分では、占い師が正しいかどうかは誰にもわからない。結局は聞くほうの気持ち次第ということになる。

 

でもなかなか不思議な体験で面白かった。

お国の仕事はつらいよ

最近、忖度とか改竄とかが熱いワードになっている。
ぼくも今、少し霞が関絡みの仕事をやっているのだけれど、ひとつの事業に関して、申請とか精算とか、まあほんっとうに面倒くさい。


税金を使っているのだから仕方ないけれど、我々事業者も役人の方々も、本来の業務とは別に、手続きの煩雑さでどれだけ時間をとられていることか。
官庁も一人ひとりは優秀な方が多いだけに、もう少し柔軟にやれる環境があれば、もっといい仕事ができるんじゃないかなんて思うけれど。そうすると今度は不正がはびこり、また厳しくなる、その繰り返しなんでしょうね。


それにしても大変である。
普段はそれほど残業も苦ではないけど、この事務手続き系でひたすら業務が増えるのは気持ちが滅入りますね…

二次会のフシギ

今日は取引先との会合だった。

一次会で先方がさっと立ち去ってくれたので、我々も、じゃあ帰ろうかとなった。

 

駅に向かう道すがら、同僚と、いやあ早く解放されてラッキーだねと話した。

 

世の中で開かれている業務的な二次会の中で、いったい何人がほんとに行きたくて行ってるのだろうか。

相手も自分たちも面倒くさいと思いながら、流れでなんとなく行かざるをえない空気になることが一度や二度ではない。ほんとうに虚しい時間である。

 

取引先との飲み会が必要ないとは言わないが、二次会は絶滅してほしいと心から願う。

 

西口投手に学んだこと

自分の評価にまったく不満がない人はいないだろう。ときには周りにグチを言ってしまったり、会社に文句を言う人だっているかもしれない。ぼくだってそんな経験がないわけではない。

でもそんなとき、ぼくが思い浮かべるのはプロ野球選手の契約更改だ。

評価に納得がいかず揉める選手というのがいる。
中には「球団の評価が妥当なんじゃないかな~」と思える選手もいる。というか、どちらかと言えばそういう方が多い気がする。

一方で、すごい成績を残しておきながら常に一発更改という選手もいる。
以前西武ライオンズのエースとして大活躍した西口投手(現コーチ)はその代表格だ。
周囲から見れば「もっと給料もらってもいいのでは」と思ったり「そんなに下げられてかわいそう」と思っても、本人は常に一回の提示で判を押していたようだ。

もちろん個人事業主であるプロが、自分の評価に納得がいかず、自分の考えを主張することはまったく悪いことではない。当然の権利だと思う。


ただし会社においては周囲の評価が絶対、というところもある。
いくら自分では頑張っているつもりでも、まわりから必要とされなければ仕方がない。
そういう意味では、いくら納得いかない評価を受けてもまずは受け止める必要がある。

そこで思い出すのは西口である。あの西口でさえ、低い評価を受け止めて判を押してたと思えば、自分ごときは文句を言うヒマがあったらもっと精進して結果を出そう、と思えるのだ。

そして最近では、そんな風に地道に頑張ってきてよかったと思えることも出てきている。


人生山あり谷ありだけれど、一喜一憂せず西口のようにいつも泰然としていたい。

おまもりとは?

次男が小学校に入学するので、今週末は交通安全祈願に行こうという話をしていた。

そこでお守りの話になって、次男は「お守りって何?」と言い出した。
ぼくと妻は「う~ん」となってしまった。
あまり迷信じみたことは言いたくないが、かと言って、わざわざお参りに行こうというのに、ただのお飾りというのもなんか違う。

そのとき長男が「信じない人には何の意味もないけど、信じる人にとっては大事なやつでしょ」と言った。

ぼくと妻「そういうこと!」


ぼくらが、頭にイメージがあって、でもなかなか言葉にできなかったことをサラッと言ってのけた。
うちの子、なかなか大したもんだと思ってしまった。

犬とわんこ

いつの頃からか「わんこ」という呼び方が定着した。
たぶんめざましテレビの「今日のわんこ」の影響だと思うけど、単にテレビの力というだけでなく、犬を飼っている人にとって「犬」と呼ぶことへの何となくの違和感が、「わんこ」支持へと一気に向かったのだと思う。


ぼくも子どもの頃には実家で飼っていた。
だから「ペット」や「犬」への違和感はもちろん、「飼う」と言うのさえなんだか変な感じがする。

うちはジャーマンシェパードのメスで、ぼくが小学生の頃に生後1ヶ月くらいでやってきた。
だから文字通り、一緒に育った「きょうだい」のような感覚だ。
遊んだりケンカしたり。
彼女は一家の主である父親の言うことはよく聞くが、ぼくの言うことなんてちっとも聞かなかった。
でもぼくが学校から帰ってきたら、つながれてる鎖がちぎれんばかりに駆け回って喜んでくれた。

一度、ぼくの通学の後を追って学校に乱入してきたこともあった。
田舎町で、うちのシェパードは有名だったから、すぐに先生がぼくのところに来て「早くなんとかして!」と叫んだ。
驚いて校庭に出たら、彼女はぼくを見つけて全速力で駆けてきて、いつもの体当たりをかましてきた。あのときの本当に楽しそうな顔が忘れられない。


やがてぼくが実家を出て、たまに帰省すると、同じく少しずつ大人になっている彼女は、落ち着いた出迎えを見せるようになった。でもピンと立てたしっぽは、変わらずブルンブルンと振られていた。


彼女が亡くなって、もう20年近く経とうとしている。
でもおなかを撫でたときの毛並の手触り、耳と耳の間に顔をうずめたときのにおい、顔を舐めてくる舌の感触、どれもありありと思いだせる。しょっちゅう夢にも出てくる。

世の中的には、ペットでも犬でもわんこでもなんでもいい。それはカテゴリーの総称でしかない。


ぼくにとって彼女は世界で唯一の存在であり、まぎれもなく家族である。