にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

マイ・ベスト・カバー曲

最近、Lady Gaga がカバーしたElton Johnの”your song”がお気に入りで、何度も聞いている。もともと良い歌だと思っていたけれど、Lady Gagaバージョンはさらに好きだ。歌に込められた想いが聞いているこちらにもまっすぐ届いて、染み入ってくる。

 

Lady Gagaはオリジナルもよい歌がたくさんあるけれど、カバーもすごい。

なにかの開会式で弾き語りをしている”imagine”もYoutubeで観られるが、これがまた圧巻である。ただ聴いているだけで目頭が熱くなってくる。彼女が心から”peace”を願う気持ちが自分の心を震わせる。

 

世の中にはカバー曲であふれているが、人の耳に、心に残るものはそれほど多くない。

「その人」が歌うことに意味があると思わせる説得力が感じられないと、どんなに上手く歌っていてもカラオケの延長程度にしか聞こえない。

 

カバーに感じさせないカバーの代表曲として思い浮かぶのは、忌野清志郎の”デイドリーム・ビリーバー”だ。

そもそもぼくがこれを聞いたのはオリジナル曲よりも先ということもあるかもしれないが、これはもうやはり「彼の」歌と言っても差支えないだろう。それくらい「伝わる」歌だ。

 

最近、Bruno Marsのヒット曲を日本語訳でカバーした誰かの歌をラジオでたまたま聴いたのだが、確かに上手いけれどこちらは「カラオケ」にしか聞こえなかった。

 

「カラオケ」に聞こえる歌手とそうでない歌手は何が違うのか(まあ当然それは個人的な好みや感覚にすぎないわけだが)。とても言葉で説明できないけど、清志郎Lady Gagaは、その自分ならではの「魂」を歌に込める熱量と表現力が飛びぬけて高いのだろう。もはや練習や技術で身につく次元のものでもない。それが「カリスマ性」ということかもしれない。

 

ずっと、何度でも聞きたい。そう思わせてくれる歌は心の支えになる。そんな歌に出会えるととても幸せな気持ちになる。

仕事好きとは

ここ2週間くらい深夜帰宅が続いてたけれど、今日は19時台の電車に乗っている。

こんな時間に帰れるのはいつ以来だろうか、というくらいである。

 

基本的には今の仕事は好きだし、暇よりは忙しい方がいいけれど、あまりに仕事に追われる時間が続くとやっぱり疲れる。

 

そう考えると、ぼくは仕事が本当には「好き」ではないのかもしれない。

 

常に仕事のことを考える、ということができない。

会社を出たら完全に頭を切り替えるし、家ではひたすらボーッと野球を観たりドラマを観たりしていたい。

 

たまにツイッターなんかでデキる人の発言では、仕事と遊びの境界なく、というのも見かけるがぼくには到底無理である。

 

まあこの辺がビジネスマンとしての自分のレベルの低さなんだろうけど、それを克服したいとは思わない。まあこういうのは克服するとかじゃなく、性格や素質の問題かもしれない。

 

仕事はそこそこのレベルでいいから、やっぱり楽しみは楽しみで大事にしたいと思う。

読書とは

朝の駅で、いつも電車がホームにつくやいなや、後ろから割り込んできて我先に乗り込み座席を確保するおじさんがいる。

彼はぼくと同じ終点で降りるのだが、降りるときも我先に立ち上がって、立っている人よりも先に降りようとする。

 

まあ田舎の路線でラッシュ時でもないからみんなノンビリしたもんだし、ぼく自身もたかだか20分くらいの乗車時間で初めから座る気もないので、そこまで腹を立てるということはない。

「いい歳して徳の無いオッさんだな〜」と思うくらいである。

 

ところが、今日たまたまぼくの目の前の座席に彼が座って、熱心に読んでいる本の内容が目に入ったのだが、その文章に驚愕した。

 

おそらく中国か何かの思想家の文言集のようなものだ。教養のないぼくにはそれが誰だかわからないが、たとえばこんなことが書いてある。

 

「自分が恩を施したときはすぐに忘れて、人に恩を受けた時は決して忘れぬように」

「忠の字は真心という意味である。これがあるかどうかをを自分に責めるのはよいが、他人を責めてはならない」

「真の勇者は慎しみ深いものである」

 

 

いったい人間にとって読書のもつ意味とは何なのであろうか...

 

いや、彼にとってこれが人生を変える一冊になるのかもしれない。

今後も彼から目が離せない。

恋とセクハラのあいだ

友人が悩んでいた。

 

ある女友達と飲みに行き、女性の方は既婚者なのだが、なんとなく良い雰囲気になったそうで、思い切って部屋に誘うと来てくれたそうだ。

 

で、どうなったかと言うと、キスまでは許してくれたものの、最後まではダメだったとのこと。

 

まあ相手も既婚者だから無理はないし、良い悪いみたいな話をしたいわけでもなく、彼が悩んでいるのは、その後彼女が彼の連絡に反応してくれなくなったということ。

LINEを送っても既読にはなるが返信がないらしい。

 

それで、何か彼女にひどいことをして嫌われてしまったのかと悩んでいるのだ。

 

やっぱりもう会えないとか、何かに怒っているとか、言ってくれれば対応のしようもあるが、無反応だとひたすら悶々と悩むしかない。

 

彼からすると、部屋にきてくれて、途中まではいい感じだったと思っていたけど、ほんとはそうじゃなかったのか、彼女は嫌がっていたのか、だったらあれはセクハラになってしまうのか、いったい何だったんだ、と寝ても覚めても彼女のことでアタマがいっぱいのようだ。

 

まあ話を聞いているだけのぼくに彼女の気持ちなんてわかるはずはないけど、ふと思ったのは、たとえばキスまでは乗り気でそれ以上は断るつもりだったとして、それ以上を彼が迫ったらそれはセクハラなんだろうか、という疑問。

 

もちろん強引にとか暴力をふるって、なんてのは問題外だが、ふつうのオトコなら、部屋まで来てキスを許してくれたら、最後までを期待してしまうのは自然なことだと思う。

 

相手が嫌だと思っていたらその時点でセクハラ、というのは基本原則だとは思うけれど、彼の場合、話を聞いてる限りにおいては、これでセクハラとなるのはなかなか酷だと思う。

 

無視を貫く彼女はいったいどういう気持ちなのか。悩める彼には申し訳ないが、外野のぼくからしたら非常に興味深いのである。

 

これで、彼の気をひく駆け引きだったとしたらまさに彼女の思うツボであり、恐るべしである。

長男の担任のこと

仕事も忙しく、得意先や社内でもいろいろあったりして肉体も精神的にもちょっとお疲れである。

こんなときは、少し気持ちが前向きになるような、明るい内容のことを書きたい。

子どもの授業参観に行ってきた。
次男は入学してまだ1週間。教室はまだ動物園みたいなものだ。先生ご苦労様ですというしかない…

それに比べると4年生の長男の教室は少し落ち着いた雰囲気が漂っていた。

担任の先生は3年生からの持ち上がり。もともとは別の先生だったが、病気療養のため臨時で来た先生がそのまま続いている形だ。

この男の先生がとてもいいのだ。
だいぶ若く(確か平成3年生まれと聞いた…)、見た目もやや小太りで愛嬌があるが、生徒とのやり取りは和やかで余裕が感じられる。
何より、子どもたちとの時間を自分も楽しんでいる様子が伝わってくる。

授業で映すスライドも、遊びごころたっぷりでありながら、覚えてほしいことはちゃんと印象付けられている。きっとかなり時間をかけて内容を練っているはずだ。


当然生徒の受けもいいようで、うちの子どもも先生のことが大好きだ。
新学期の初日、「担任の先生は誰になった?」と聞いたら、嬉しそうに「誰だと思う?」と聞き返してきた。
その様子を見てこちらもすぐにピンときたほどだ。


自分とは一回り以上も年下の先生ではあるが、長男をこれほど学校好きにしてくれる力量は尊敬するし、ほんとに感謝しかない。


仕事の成果というのはやはり年齢には関係なく、向き不向きや、その仕事が好きと思えるかどうかで大きく変わってくるものなんだなというのを感じる。

「迷惑をかけない」という呪縛

子どもたちにはつい「人に迷惑をかけないように」と言ってしまうが、それはあまり良くないことのような気がしてきた。

 

将来生きていく上で、それは最優先に大事にしなければならないことではない。

 

自分が見る限り、すごい仕事を成し遂げる人は「人に迷惑をかけない」ことを気にしている風ではない。

 

もちろん犯罪とか人の嫌がることをするとかは論外だけど、「迷惑をかけない」ことを気にしていては、枠からはみ出すことができない。

 

次男はこだわりが強く、授業中にお絵描きをすることになっても、描きたいものが決まらないといつまでも描けない。適当に済ませることができない性格だ。

 

先生を困らせることにはなるが、でもそれでいいんじゃないかと思う。たとえば「好きなものを描く」というお題で、適当に好きでもないものを描くことに何の意味もないだろう。それなら「自分の好きなものは何か」をとことん考えたらいいんじゃないかと思う。

 

「迷惑をかけない」というのは聞こえはいいが、それがいつのまにか「人に合わせる」という意味になっていないか、親として気をつけていたいことである。

 

 

ハリルホジッチ監督の解任に思うこと

なんてタイトルをつけてみたのだが、実を言うと「思うこと」など何もない。

 

気づけばサッカーへの関心がずいぶん薄れている自分がいた。

代表監督解任のニュースを聞いて、「へえ」くらいにしか思わなかった自分が、なぜそんなに興味がなくなったのか、そこに関心が湧いたくらいだ。

 

自分のサッカー熱は、まさにニワカの典型なのだが、日韓ワールドカップのあたりが山である。あの頃はヨーロッパのリーグをよく見て、そこそこ選手にも詳しくなり、ウイイレなんかもしょっちゅうやっていた。

 

でも、その興味はJリーグにまではいかなかったし、どこか特定のチームのファンになる、ということもなかった。

 

そんな中でも西武ファンであることは変わらないわけで、そうするとやはり、自分の「関心キャパ」はどんどん西武のシェアが高まっていくことになる。

 

気づけば、今年で西武ファン歴は30数年、その熱は高まることはあっても下がらないままであり、サッカーはもう代表選手の名前すら知らない状態になってしまった。

 

やはり、スポーツは特定の応援対象がいないと、どこか熱が入らない。かといって無理に好きなチームをつくるのも無理である。

 

この先も西武一筋で生きていくのか、新たな出会いがあるのか。自分のファン人生に興味津々である。