にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

死への恐怖

知らないことは怖い。もちろん知っているからこそ怖ろしいということもあるが、だいたいのことは、経験や知識があった方が心の準備もできるし、対処方法だって考えられる。


「知らないから怖い」の最たるものは死だろう。死んだらどうなるのか、そのあとの世界がどうなっているのかわからないけれど、いやわからないからこそ恐れてしまう。これは理屈ではなく、そもそも生物として、生き残ることを望む意思がDNAにインプットされているのかもしれない。


ここまで書いて、ふと思ったことがある。

以前からなぜ「余命宣告」に恐怖を感じるのか、ということがわからなかった。もちろん感覚としては理解できる。自分だってそんなことは聞きたくない。でも誰しも生まれた瞬間から、いつか死ぬことは決まっているのだ。それがいつなのか、分かっているかいないかの違いでしかない。だけどやっぱり恐ろしい。たとえ「余命50年」と言われても、落ち着かない気持ちになってしまうだろう。


人には「生きたい」「少しでも長く生き延びたい」という意思がプログラムされているとしたら。余命宣告はそれを打ち砕く通告ということになる。そこに絶望を感じてしまうのかもしれない。


「生きてるだけで丸もうけ」という誰かのことばがあるが、自分に残されている時間がどれだけにしろ、まずは今日一日こうして生きていることに感謝してもいいのかもしれない。

大人数が苦手

ぼくは大人数での飲み会が苦手だ。多くの場合、近くの何人かずつの固まりができて、それぞれ会話がなされるのだけど、その固まりはだいたいぼくを境目として右と左に分かれることになる。つまりぼく自身に会話をはずませる能力がないことが原因である。だからよほど仲が良い人がいるのでもない限り、基本的に5人以上が集まる飲み会は気が進まない。


ぼくは残念ながら、あまり他人に関心をもてない性格だから、自分から話しかけていくことができない。仲良くなるには、仕事などで普段から自然と関わりがあり、だんだんと人柄に興味をもったり親近感がわいてきて会話するようになる、という流れが必要で、時間がかかるのだ。


若いときにはたまに合コンに誘ってもらうこともあったが、これは大人数×初対面という合わせ技で、さらに悲劇である。当然ながらあまりよい思い出はない。


もう少し場を盛り上げるとは言わないまでも、そこそこに馴染めるスキルを身に着けたい気もするが、そうならないままに40年も生きてきたので、もう今更どうにもならない。幸いなことに、こんなぼくでも相手をしてくれる奇特な友人が何人かいるので、その連中のありがたみを噛みしめて人生を生きていくことにする。

嫌われない戦略

先日、会社での自分が自分らしくなく、少ししんどいみたいなことを書いた。その理由が少しわかった気がした。


自分の職場でのスタンスは、基本「嫌われないこと」が優先だ。好かれるかどうかは相手との相性もあるから自分でコントロールできないが、嫌われないようにするには、ある程度自分の心がけでどうにかなるように思う。

言い訳しない。自慢話をしない。陰で人の悪口を言わない。相手の気持ちに配慮しつつ、でも意見ははっきり伝える。あまりプライベートなことには立ち入らない。もちろん完璧に実践できてるわけではないけれど、少なくともこれらに気を付けて日々を過ごしている。


プライベートな関係であれば、もっと悪い部分も含めて素の自分をさらけ出して、合わなければ疎遠になればよいだけだ。でも職場はそうもいかない。親密になる必要はないが、できれば良好な関係でいたい。そう考えると、多少窮屈に感じても「嫌われない自分」でいることは必要なのかもしれない。

西武ライオンズ終戦

昨日をもってライオンズの2018年シーズンが終了した。


結果的には悔しい終わり方となったクライマックスシリーズを見ていて、あらためてファン心理の不思議を感じた。


ほとんど一方的にやられたこの数試合、ピンチで迎える上林、川島、柳田…。テレビを見ながら何度「見たくない」と思ったことか。いや思うだけではない。口にも出してしまった。

すると奥さんが一言。「見なきゃいいじゃん。」

そうなのだ。まったくおっしゃる通り。見なきゃこんなに怖い思いをすることはない、試合終了後に結果だけ確認したら、負けたショックもだいぶ薄まるだろう。


でも当然テレビを消すことはない。直視する勇気はないから半目になってしまうものの、見ずにはいられないのである。

なんで消せないのか。あらためて考えてみると、その先にかすかでも「希望」があると信じているからだ。もしかしたらピンチを抑えてくれるかもしれない、最後には逆転してくれるかもしれない、可能性が低いとはわかっていながら、わずかでもその希望があるとテレビは消せない。実際にそんなわずかな希望が現実となった瞬間を何度も経験している。


スポーツは筋書きのないドラマと言われる。当たり前だがプレーをしている選手本人たちでさえ結末を知らないのだ。こんなエンターテインメントは他に存在しない。


今年の西武ライオンズは過去最高の観客動員数を記録したそうだ。辻監督は常々「最後までお客さんを帰らせない野球をする」と言っているが、今年は何度かすかな希望を現実にし、歓喜させてくれたことか。いつも希望だけで終わってしまうといつかは諦めに変わる。それを勝利という結末にしてくれる回数が多いほど、チームへの愛と信頼は深まる。今年の西武ライオンズはどれだけ愛しても愛し足りないほど素晴らしかった。ありがとう。来年こそは日本一期待しています。

いろんな自分

自分の中にはいろんな人格がある。家族でも奥さんだけといるときと子どもの前では違うし、親友でもあの人の前とこの人の前の自分では、また別のキャラクターになっていると感じる。決して意識しているわけではないけれど、自然とそうなっている。何も無理をしていないし、それぞれの相手と過ごすときならではの居心地の良さがあったりするのだ。


そんな人格の一つとして「職場の自分」というのもある。これは少し意識してコントロールしているところはある。仕事上の人間関係では、好かれなくてもよいが嫌われるのはできるだけ避けたい。だから心を開いて仲良くなることよりも、まずは相手を不快にさせないことを優先した距離感、という感じだろうか。もう20年近くも社会人をやっているので、これも特に無理をしている感覚ではない。はずだったのだけど、このところちょっと心境が変わってきた。

いつの間にか、周囲の見る目が、なんだか自分の意図していなかった人格を作り上げている、言い方を変えれば分不相応な評価を受けている気がするのだ。そして厄介なのは、それに応えようとその人格を「演じている」自分を感じてしまうことである。つまりちょっと窮屈なのだ。今の「職場の自分」だけはあまり自分らしく思えない状況になりつつある。


ある程度の年齢になって、会社での立場も変わってくると誰しもそんな感覚はあるのかもしれない。でももう少しダメなところを出しながらも、受け入れられるようになると楽なのになと感じてしまう。

逆境

ぼくは楽観的な性格という自覚がある。それなりに幸福な人生を送ってきたと思えていたし、この性格も手伝って、これからも山あり谷ありの中でまあまあ楽しく生きていけるのではないかと考えていた。けれどここのところ、まさか自分に降りかかるとは想像もしていなかったことが起きて、少し驚いている。けっこうタフな状況だけど、もちろん世の中には同じような境遇の人はたくさんいるだろう。大変なことを経験したら、それだけまた少し想像力が広がり、思いやりも深まるだろう。このことが人生の糧になっていくと思いたい。

できる人とできない人

うちの会社はいわゆる中小企業の分類に入ると思うし、ましてやぼくの職場は地方の支社だけど、やはりなんとなく「できる人」と認められている人は存在する。またその一方で「できない人」と思われてる人もいる。社員間で特にそのことについて話すことはないけど、だいたいその認識は誰もが一致しているのではないかと思う。


「できる人」はその発言が尊重され、役職や年齢に関わらず自由にふるまい、裁量を許されて仕事をしている。「できない人」は周りからあれこれ口を出され、ダメ出しをされることも多い。当人からしたら「同じことを言っても何でオレだけ」と憤慨することもあるだろう。


その差はどこに生まれるのか、ぼんやり思うところでは「気持ち」の差が大きいのではないか。同じ頼まれ仕事でも「できる人」は、引き受けた瞬間から「自分の仕事」という意識をもっている。だからもし依頼された仕事に疑問があれば「なぜその仕事が必要なのか」「こうした方がいいのではないか」と意見するし、そこで納得できて初めて前に進む。頼む方からしたら面倒くさい相手ではあるが、裏を返せば「責任感がある」ということだ。ひとたび仕事を受けてもらえたらあとは安心して任せることができるし、当初想定していた以上の成果を出してくれることも多い。


一方で「できない人」は、たとえ疑問をもってもただ受けてしまう。そして「どうしてこんな仕事を…」とモヤモヤしながらストレスを抱えて仕事をすることになる。取引先や関係者にも「自分の本意ではないのだけど」という空気を醸す。必然的にグチや言い訳が多くなる。成果はよくて想定通り、たいていは物足りないものになってしまうから、そのうち周囲に「できない人」という認識ができてゆく。


その認識が定着してしまうと、今度はたまに意見しても相手は聞く耳をもたない。だんだんと「どうせ言ってもムダ」という心境になり、単に言われたことをこなす、という循環に陥っていくのだと思う。


「できる人」も「できない人」もはじまりはちょっとした意識の差であり、その積み重ねだ。であるとすれば、これからの倍の積み重ねでその評価を覆すことだってできるだろう。

自分も「オレはダメだな…」と落ち込むこともあるけれど、いつか取り返すという気持ちは忘れないでおきたい。