にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

強い犬が好き

犬には2種類ある。とぼくは勝手に思っている。

ひとつはチワワやトイプードルのように、愛玩犬として、人間にかわいがってもらうために存在しているような犬。とてもかわいいしぼくも大好きだ。でも、ぼくは子どもの頃に実家でシェパードを飼っていたこともあり、自分が飼うとしたらやはり「強い犬」がよいと思ってしまう。シェパードは体も大きいし強い犬の代表的存在だけれど、大きさにこだわるわけではない。犬がはしゃいだり、駆け回るときのはじけるような手足の躍動感、みなぎる生命力みたいなものを見るのが好きなのだ。その超人的(当たり前だ)なパワーやスピードに惚れ惚れしたいのだ。柴犬やビーグルみたいな小型犬でも「こいつと本気でケンカしたら勝てないな」と思わされる瞬間がある。そんな頼もしさが大きな魅力と感じてしまう。


その「本気出すと強い」犬が、甘えてきたり自分へ信頼の情を示してくれることが、またたまらなく愛しい。自分の足元にもたれるように横になってきた背中を撫でてやるが、癒されているのは間違いなくこちらである。


すべての犬に共通するのは、損得など何もなく、ただ一緒に住み、傍にいてくれることが大切だと思えること。太古の昔から人間の相棒として暮らしてきた犬は、やはり家族である。

サラリーマンの心得3か条

サラリーマンは、他人の評価から逃れられない。上司を選べないし、その評価が納得いくとは限らない。同じ仕事を同じようにやっていても、相性が合う上司からは良い評価が得られ、合わない上司になるとまるっきりの低評価、ということもよくある。


もちろん自営業やフリーランスの人たちは、もっと直接的に顧客からの評価が収入に直結するシビアな環境で生きているから、どんな低評価を受けようが毎月の給料が保証されているサラリーマンが贅沢言うな、と思うかもしれない。


それはその通りだけど、評価基準があいまいで、結局主観的な印象や好き嫌いで判定されてしまうのは、それなりにストレスフルなことだ。


とまあこんなことを書いているというのは、お察しの通り低評価を受けているからである。納得いかないのである。


ただ、自分に踏ん切りをつけるためにも、ここに宣言しておきたい。


一つ、評価のことを同僚にグチらない。「あいつ(上司)は分かってない」なんてグチは最悪。言うなら直接上司に言おう。


一つ、高評価の同僚を妬まない。それはそれで本人の努力の結果。素直に認めよう。


一つ、他人の給料と比べない。現時点で生活に困らない程度の収入があるなら、それでいい。他人の給料が上がろうが下がろうが、自分の生活とは関係がない。


以上。

なんとなくスッキリした気がする。

イエスは黒人?

今日たまたまこんな記事を読んで衝撃を受けた。


イエス・キリストは白人から黒人に戻る?

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/06/post-93812.php


何に衝撃を受けたかといえば、これまでキリストが「白人」であることに何も違和感を感じたことがなかった自分に対してだ。


キリストは現在のパレスチナあたりの生まれとされる。であるなら当然、その見た目は中東系である可能性が高い。でも「パレスチナ生まれ」という定説は知っておきながら、よく目にする「白人のキリスト」がキリストだと思い込み、疑いすら抱いたことがなかった。

また、世界には黒人や中華系のキリスト像が存在することも知らなかった。


そんな「考えてみたら当たり前」のことを「考えたことがなかった」ことに対して、呆れたというか、しょぼいな自分、という気持ちである。


日ごろ先入観やら偏見やらから、できるだけ自由でありたいと思っているし、比較的そうである自負も秘かにもっていたのだけど、しょせんこの程度。きっとほかにもたくさん、思い込みや疑いもしていない先入観があることだろう。そのことを肝に銘じて、自分を過信せずに生きていきたい。

好きになる

ほぼ日の、糸井さんと小泉今日子さんの対談を読んでいた。

小泉さんが子どもの頃、母親に「アイスを買い食いしてもいいけど、座って食べろ」とか、近所に転校生が引っ越してきたら「朝迎えに行って、一緒に学校に行ってやれ」とか、あれこれ厳しく言われたことを振り返る。そのくだりで、糸井さんがこんなことを言っている。


“学校で教わる勉強は、
それはそれで重要だけれども、
思えば人が人として生きていくときに、
何が大事かということは、
親や友達から学んだりすることが多い。
しかもそれって、あとで活きてくるね。”


そして続ける。


“なんというか、
「自分を好きでいられること」
といえばいいのかな。”

 

この言葉を読んで、あぁ本当にそうだ、と思った。


ぼく自身が子どもたちにあれこれ言うとき、それは勉強のことだったり、態度のことだったり、いろいろある。でもそれは「よい成績をとってほしい」とか「行儀よく育ってほしい」とかいう思いとはちょっと違う。違うというよりも、それらは手段のひとつに過ぎない。人それぞれ「幸せ」の尺度が異なる中で、自分の価値観に合う幸せを「選べる立場」にいてほしい、そんな気持ちだ。しかしそれも何か言い足りない。そもそも「幸せ」って何なのか。

子どもに対するとき、いつもそんな言語化できない感情を抱えている自覚があった。


そんな中での、先ほどの言葉。

一言で表すならばまさに「自分を好きでいられる」、そんな人生であってほしいという願い。それに尽きると思った。


恥ずかしげもなく告白するならば、ぼくは自分が好きだ。これはきっと教えられたり、訓練して保てる気持ちではないだろう。そうかと言って、生まれつきの性格というわけでもない。両親や妻、友人などこれまでぼくと接してくれた人たちの態度や、かけてくれた言葉が、少しずつ自分を好きにさせてくれたという実感がある。


その結果、ぼくはいま自分がそれなりに、漠然とではあるが「幸せ」と感じる人生を歩めている。


親が子に「自分のようになって」とはおこがましくて言えないセリフだけど、ただ一つ「自分を好きになる」ことに関しては、そうなってほしいと心から願う。


そのためにぼくにできることは、子どもたちがぼくに「好かれている」と思える瞬間を、ひとつでもふたつでも多くつくっていくことなのだろう。

今日で在宅勤務2週間

子どもたちも再び休校になって、一日のほとんどを一家四人だけで過ごしている。

 

家族がいてくれることのありがたみと、

家族以外の仲間と過ごすことの大切さと、

両方を噛みしめる日々。

 

在宅勤務2日目

こんな事態は人生でそう何度も経験することではないだろうから、心境を記しておきたい。


正直、会社から「原則出社禁止」のお達しが出たときは、ちょっとした嬉しさがあった。開放感と言い換えてもいいだろう。もちろん仕事が減っているのだから、これから給料だって減るだろう。歓迎すべきことでないのは頭では分かっている。でも「出社義務」がしばらくなくなることの身軽さをポジティブに感じたことは間違いない。


そうして昨日から在宅勤務がスタートした。初日は朝に少し業務をしたあと、ちょこちょこと用事や買い物に外出し、そしてまた合間に業務という感じ。そうこうするうちに子どもたちが学校から帰宅し、一緒に遊んでしまった。


2日目。朝に業務。ちょっとした買い物に外出した後、洗車。奥さんとお昼ご飯を食べ、業務のち昼寝。また業務。


2日目にして早くも「昨日と変わりばえしない一日を過ごしてしまった」と、ちょっとした焦りみたいな気持ちを覚える。裏を返せば、会社に行くという行動に伴う、通勤などの移動や、オフィスでは周囲を人がうろちょろしているということがあるだけで、なんとなく「何かした」気になっているのかもしれない。


それから、思っていた以上に奥さんの目を意識してしまう。普段は彼女が一人で過ごしている空間にお邪魔しているような気分。ぼくが在宅していることをどんな風に思っているのだろう。残念ながら歓迎されている気配はない…


在宅勤務を乗り切れるかどうかは、家族との関係性が肝なのかもしれない。

なんとか快適に過ごせるよう、ご機嫌をとりながらがんばろう。

誰にも言えない密かな楽しみ

最近スマホを眺めていても疲れる。ついCOVID19関連の情報を求めてtwitterやスマートニュースを開いてしまうのだけど、目につくのは誰かが誰かを非難する記事やコメント。中には傾聴すべきものもあるのはわかっているが、気が滅入ることには変わりない。


しかもやっかいなのは、状況が刻一刻と変化していくから、情報を追うことにもキリがないのだ。気づけばひたすら画面をスクロールしている。そしてどこかのタイミングでウンザリする。もうやーめたと思う。


とはいえ、他に楽しい情報があふれているわけでもない。大好きなプロ野球の試合が行われていないのだから、大好きなプロ野球の記事も存在しないのである。これは辛い。スポナビを見てもnumber webを覗いても苦心の様子がうかがえる。みんながいろんな形で影響を受け、それぞれの苦労をしている。


そんな中で、ひそかにハマっているのが、恥ずかしながら自分のブログの過去記事を読み漁ることだ。一時期、なんでもいいから毎日書くことを己に課していた時期があり、気づけば500近い数になっている。内容はほんとに他愛のないどうでもいいことばかりなのだけど、自分で読むとけっこう面白い。この頃はこんなこと考えてたのか、とか、「わかる~」とか(当たり前だ)思ってしまう。特に子どもについて書いたものは、彼らの成長を証明する記録でもある。過去の愛らしい時期を懐かしく思い、あらためて今のたくましい様子を嬉しく思う。


これまで「書く」ことが目的で、振り返ることはほとんどなかったのだけど、積み重ねてきたからこそ発見できた楽しみだ。これからも細々と更新していこう。