にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

こんまり

話題のnetflixの番組を観てみたけど、とてもよい。(まだ初回の30分程度だが…)


モノに感謝する、という感覚は日本人的な価値観という印象が強い。でも使い続けたもの、お気に入りのものへの愛着は誰の心にもあるだろう。それを意識して行動しているかどうか、という違いだけなのかもしれない。初回クライアントの奥さんが、家に感謝するプロセスで思わず涙したシーンが印象的だった。


とにかくポジティブな雰囲気を全身にまといながら人ともモノとも接するこんまりさんを見ているだけで、気持ちがおだやかになるし、元気になれる。自分の心の中もスッキリ整理されるような、そんな番組だ。そしてアメリカでも多くの人が同じように感じて大ヒットしているというのは、なんだかうれしい。人種や国籍、信仰する宗教が違っても、気持ちの深いところで同じ価値観が共有できる仲間なんだと思える。


とかく極端なメッセージが目立ちがちな現代では、一部の人にウケたものが、一方で誰かの気分を害するというのもよくあることだ。でもこの番組にはひとかけらも悪意がない。誰も傷つけずに、これだけ多くの人の心を惹きつけるのはすごいことだと思う。世界中の人に見てもらって、価値観でつながれる仲間がどんどん増えていってほしい。

これからの仕事との向き合い方

出世欲がすっかりなくなって久しいのだけど、最近プライベートで非常事態が続き、なにかと出費がかさむにつれ、だんだん、ある程度お金を稼いでおくことも必要だと思い始めた。いざというときに「お金がないから」が原因で、やれることの選択肢が限られるのはできるだけ避けたい。そのためには、多少気乗りしないことにも関わっていく必要があるのかもしれない。これまでは好きな仕事ができて、一応家族を養える収入が得られていたら、それ以上を望まず気楽に生きていきたいと考えていた。でもこのままだと、今後は家族を守る責任を果たせなくなる可能性があることに気付いた。少し違うスイッチを入れて仕事と向かい合ってみようか。そのために「やりたくないこと」をする羽目になったとしても、自分の中で「理由」があり納得できるならば、乗り切れるかもしれない。自分にとっての「大切なこと」の優先順位を基準にどう生きるかを決める、というスタンスに変わりはない。

好き

最近いろいろあってちょっと大変なのだが、奥さんが何かと気遣ってくれるのがありがたい。

 

そんな中、ふたりでランチに行って帰る車内のラジオで、男と女の愛情表現への認識違いの話をしていた。女性は好きと言われたいが、男性は言わなくてもわかってるだろ、みたいなよくあるやつだ。

 

でもなんだか触発された。大変なときに支えてくれている感謝が募っていたし、この人と結婚してよかったと日々思っているタイミングだったから。

 

そこで、信号待ちで停車したときに奥さんの手を握って「好きだよ」と言ってみた。

 

すると「ラジオで言ってたからでしょー」なんて照れながらも思いのほかとても嬉しそうだった。そして手を握り返して「わたしも」と言ってくれた。

 

それ以来、ますます優しくなった。

ちょっと付き合っていた頃に戻ったかのような愛情を示してくれるようになった。

 

「好き」のちからはすごいことを人生で一番実感した。

 

もちろん口に出すのは少し勇気がいる言葉だし、反対に言い慣れてしまうとよくない気もする。

でもやっぱり、たまにはきちんと言葉にして伝えることを忘れないようにしたい。

 

自分をさらけ出す物書きへの尊敬

ふだんいろんな人の文章を何気なく読んでいる。おもしろい、読ませる文章の書き手というのは、ある程度、いやかなり自分の内面を「さらけ出して」書いている人だろう。

そのこと自体はよく言われることだけど、いざ自分で何かしらの文章を書こうとすると、その偉大さが実感できる。


こんな誰も読んでないブログに書くのでさえ、さらけ出せない自分がいる。

万が一知り合いに読まれたら困るから、とかそういうことでもない。いやそれもなくはないけれど、もっと内面にある抵抗感だ。

たとえば、ある人に対する口に出しては言えないネガティブな本音があったとして、それを文章に表現することは、なんだかその人に対して申し訳ない気持ちになってしまう。知らないところで陰口を言っているような後ろめたさを感じるのである。そしてもっとその気持ちを掘り下げた奥には、文章にすることで、そんなネガティブな感情をもっていることを自分自身が明確に認めることへの恐怖があるのだ。


「さらけ出した」文章を書ける人は、その恐怖と闘い、乗り越えている。面白くないわけがない。自分がその境地に辿りつける気はあまりしないが、ブログを書いていなければそのことに気づきもしなかっただろう。それだけでもひとつの収穫だ。

そういえば、おれ...

(本日の「今日のダーリン」を読んで自分も。)

 

そういえば、おれ…他人をうらやましいと思ったことがあんまりないな。小さいころからどちらかといえば自分大好きだ。

学生の頃は、お金持ちの家のやつとか背が高いやつとか、ちょっとうらやましかったけど、いつの頃からかそれもなくなった。

もちろん自分のダメなところはいろいろ自覚してる。でもそれも含めて嫌いになれないというか、愛すべき存在と思ってしまう。ほんとおめでたい性格だ。


こうなったひとつの原因は両親だろう。ふたりにはずいぶんとおだてられて育った。いつでも根拠のない自信に根っこのほうで支えられているのは、そのおかげだと思う。そしてもうひとつは妻だ。出会った頃から…いや、これはこのへんで。子どもが生まれてからは、愛情の対象としての序列が大幅に下げられた感は否めないが。。。とはいえぼくが自分を肯定していられるのは、間違いなく彼女のおかげだ。


子どもたちも自分を好きになれるように、たくさんおだててあげないとな。

ひいきの食堂

ランチによく行く食堂があって、それはある程度コスパが良いのもあるのだけど、眺めがよくて落ち着くから読書するのに最適なのと、もう一つ、店員さんの感じが良いというのがある。


おばちゃんばかりのお店なのだけど、対応が丁寧ながら溌剌としている。けっこうな人数が働いているが、みんながそんな感じである。おそらく面接をする人の目が確かなのだろう。そしてそんな人ばかりだから、職場としての雰囲気もよく溌剌と働けるという好循環が生まれているのかもしれない。


以前に注文と違う定食が運ばれてきたことがあったのだけど、この店では腹も立たない。「これもおいしそうだから、これでいいですよ」なんて言ってしまった。店に流れる穏やかな空気がそんな気持ちにさせるのだけど、その根底には、自分が払う対価と同等・それ以上のサービス(メリット)を享受している実感があるからだと思う。


お店とお客さんは対等だし、お互いに敬意をもって接すべき相手だということを思い出させてくれる場所だ。

単なるつぶやき

苦手な人(たぶんその人もぼくが苦手)とちょっと心が通じあったかもという瞬間があった。お互いを思いやった発言をし、ちょっとぎこちない笑顔をつくって笑い合った。一度でもそんな経験ができたのは大きい。苦手じゃなくなる日がくることを信じられるようになったから。